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「我思う、故に我在り」は寂しい。

ここ最近炊飯器調理にはまっている。炊飯器で手羽先と大根を煮たり、ケーキを作ってみたり。
今はこれを書きながらチャーシューを作っている。

引っ越すちょっと前まで家には炊飯器がなくて、電子レンジでご飯が炊けるやつを使っていたのだけど、カタログギフトに炊飯器があったのでもらったのを機に色々作り始めた。

すごい楽。すごい美味しい。

材料を入れて放っておけばできるから楽だし、私は火の通り加減がわからなくて、肉も魚もパサパサになる程火を入れないと生な気がして不安になるんだけど、炊飯器はほっとくだけで程よく加熱してくれる。生でもないし、パサパサにもならないし、焦げない。素晴らしい。

引っ越した家には食洗機もあるし、虚弱体質な私には料理のハードルが下がってとても嬉しい。
料理も食器洗いもできずにいると、自分の面倒もちゃんと見れない大人としてなんだか情けなくて悲しくなってくる。
今の状況は外注してるだけで、自分では大してやってないから、そこを情けなく思っても良さそうなものだけど、そこは深く考えない。

体は弱いけど、せめて心は健全でいるために、自分を責めないことが肝心。

あとは掃除だ。
掃除するだけで結構疲れるけど、床に髪とか埃とか落ちてると凹むのをどうにかしよう、とロボット掃除機購入を検討している。


今日読んだ本。

ある日、私はふと、もう自分が生きてゆく世の中には苦しいことだけが残されていると考えるようになった。これから生きてゆく世の中ではいつも誰か私が知っていた人が死ぬだろうし、私の知っていた街が変わってゆくだろうし、私の大切にしていたものが去ってゆくだろうから。ただの一度もそんな考えをしたことがないのに、ふとそんな恐ろしさに襲われた。けれども、私の中に大切にしまっておいた灯りをひとつふたつ取り出してみることがたびたび起こるという事実を悟るようになった。
(中略)
思い出の中で少しずつ明らかになるその灯りの中心にはニューヨーク製菓店がいつも存在する。
『ニューヨーク製菓店』キム・ヨンス

思い出が思い出になってしまって、もうその場所も人も物も跡形もなく消え去ってしまうまでに、どれだけ時間がかかるのだろう。

リビングの窓から晴れた日には富士山が見える。
最初に見た時はそれが嬉しくて、すごい得をした気持ちになったけど、後になって間に高層マンションが建つので、やがては見えなくなることに気づいた。
だったら最初から見えない方が良かったのにな、とさえ思うくらい落ち込んだ。

それぐらい失うというのが、変わるというのが、怖い。

思い出が思い出になっていって、あとは失うばかり、下降するばかりになる前の頂点はどこにあるのだろう。

『ニューヨーク製菓店』の語り手にとっては、母親がパンを作り営んでいたパン屋、ニューヨーク製菓店がまだ存在していた大学卒業までの間か、そのちょっと前の経営状態が厳しくなるまでの間が頂点だったのだろう。

無垢だった頃を過ぎて、頂点を過ぎてしまえば、あとは失うばかりで、まだ手元にあるとしても、いずれ失ってしまうと知っているから、その喪失を前もって体感しながら、手のひらから失われていくのを見るばかりだ。

私にはなにか語り手にとってのニューヨーク製菓店のような灯りがあるだろうか。

訳者あとがきには、「他者と共に在る。これが私たち人間存在の基本だ。我思う、故に我在り。これは大きな勘違いだ。他者と共に在る、故に我在り」とあるけれど、私にとって意味のある、確かに存在する他者はいるだろうか。

他者といっても人でなくてもいい、物でも、風景でも、思い出でも自分にとって意味のある自分ではない誰かや何か。
変わること失うことを、恐れるあまり、自分以外の存在と距離を置き、死ぬ間際に思うのが「我思う、故に我在り」ではあまりに寂しい。

でもそれも、今そう思うだけで、「我思う、故に我在り」でも寂しくない我の在り方もあるのかもしれない。
この我さえ在れば他に何もいらない、と思えるような強靭な我が。

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