私にできることとぬるっとしたチャンスタイム。
土曜日。
コロナになってしまって、自宅療養をしている人に「なにか私にできることがあったらいってね」といったけど、私にできることなんてほぼない。
今の世の中便利なもので、家に居ながらにしてなんでもできる。外に出て日用品とかの買い物ができないとしても、ネットスーパーで注文して置き配してもらえばいいし、食事だってUberやらなんやらがある。
とはいってもそうした配達員の人は仕事でやってるだけだし、そこの住人がどういう状況に置かれているのかなんて知る由もない。
私がその人にできることは、「私にできることがあったらいってね」ということだけだけど、それは私が思うより大きな意味を持つのかもしれない。
私は今あなたが置かれている状況を知っていて、心配していて役に立ちたいと思っているということ、そうした親愛の情をきちんと伝えるということ。
買い物をするとか食事を届けるとか、そうした実務的なことは私じゃない誰かでもできて、私に頼むようなことでもなんでもない。でもそうした親愛の情を送ることは誰にでもできることじゃない。それは通りすがりの誰かにはなかなかできないことだ。
土曜日その2。
録画しておいた『拾われた男』の3話を見た。このドラマは俳優の松尾諭が運を味方につけ、成り上がっていくサクセスストーリーなんだけど、ほんとの話?ちょっと盛ってる??と要所要所で惑わされるところが楽しい。
3話は運を味方につけて端役なのにいい映り方をしたんだけど、ただツイてるだけじゃ駄目なんだ実力がないと、と気づいて芝居の練習に本腰を入れ始めたところがよかった。
よく「チャンスが来たら迷わずに掴め」とかいうけど、掴むもなにもその前に、チャンスが来た時ってそれがチャンスなのかどうかすぐわかるものなんだろうか。なにかがきらめいていて、これだ!と思うものなんだろか。
それとも、それを掴めなかったりなんとなくやり過ごしてしまって、あとで振り返って、今思うとあれがチャンスだったなっていう後悔を重ねて初めて、これがチャンスだ!とわかるものなんだろうか。
私には、チャンスを逃した!という経験がないから、それが来た時にはわからないかもしれない。
それとも私は既になんとなくぬるっとチャンスを掴んでいて、それをチャンスだとも思っておらず、実力がないからそのチャンスを活かせてもおらず、そんな状態でぬるぬるとチャンスタイムが続いているだけなのだろうか。
どちらかというと、そっちな気がする。