続 会話って難しい。
今日の本。
1か月に1回の頻度で会わなければならない人との会話がどうにもつまらない。
その人とは1か月に1回30分程度の時間を過ごすのだけど、その間の会話がつまらなくて会うのがちょっと憂鬱になってしまうぐらいだ。
初めて会った時、初対面の私に向かって延々と自分が子供の頃母親からされて嫌だったこと、言われて嫌だったことを一方的に話し続けたことからして絶望的で、これからどうやってこの人と毎月30分を過ごしたらいいのだと真っ暗な気持ちになった。
けれど、段々回数を重ねていくうちに、悪い人ではないこと、素朴な人であることがわかってきた。
それがわかったことでちょっと印象は上向きになったのだけど、しかし話は依然としてつまらない。
ただつまらないと絶望しているだけではなく、どうにか楽しく会話をしようとも思った。
その人がしてくれるエピソードを掘り下げてみたり、発展させる努力はしたのだけど、結局つまらないものにしかならず、その努力も不毛だということがわかって諦めの境地に至ってしまった。
最近では向こうが話してくれる学生時代の思い出や旅行先でのエピソードなどに適度に相槌を打ちつつ、聞き流すというちょっと申し訳ないパターンに落ち着いている。
でも向こうからしたら、今度は私がつまらない人、話を広げる努力もしないし、かといって話題を提供するわけでもないやる気のない人なんだろうな、と思いつつ。
(だって話題を提供しようとこちらのエピソードを話しても、ズレた反応が返ってきたり、それと似て非なる自分のエピソードが返ってくるだけなんだもん。それもつまらないんだもん)
私もつまらない人だと思われてるというのは卑下ではなく、実際にそう思われてる可能性は十分にある。
その人が私の印象を書いたメモが目に入ってしまったことがあるのだけど、そこには「物静かな人」と書かれていたから。
その人が、友達と日帰りバスツアーに行った時の私、ツアーの集合場所で会った時からバスの中でも葡萄狩りの最中でも工場見学の時でもワインの試飲でも帰りのバスでもツアー解散後に二人で寄ったファミレスでも、ずっーーーーーと喋りぱなしで喉おかしくした私を見てたら腰抜かすほど驚くだろう。
しかしまた、それはその人にしたってそうで、その人は私ではない別の誰かだったらもっと面白おかしく話せるのかもしれない。
私と話すその人からは全く想像できないけれど。
本当に悪い人ではないのだ。素直で素朴で。でもその素朴さが悪い方向にでて、え?それの何が面白かったの?と毎回戸惑ってしまう。
よく「箸が転がっても面白い年頃」なんていうけど、本当に箸が転がっただけで笑ってて周囲を戸惑わせるような人だ、たぶん。
褒めようとしても結局悪口になってしまう…。
その人との月1回の30分は、私にとって会話というのはとにかく大事なんだと思わせるのに充分な時間だ。
会話っていうのは、本当に難しい。
会話が楽しく続くっていうのは奇跡に近い。
会話が続くのは、大抵はどちらかが努力しているか、両方とも努力してるかだ。
そもそも努力するにしても、そうまでして会話を続けたいと思わせる何かがなければ努力できない。
その努力の原動力となる何かがあるってことすら奇跡に近い。
だから努力せずともいつまでもいつまでも会話が続いて、ずっと喋り続けて喉がおかしくなる程だったあのバスツアーは奇跡中の奇跡が起こった一日だった。
踏子が思うように、会話が続くというのは、いちばんの魅力だ。魅力でしかない。
ありきたりでも退屈でもなく、どこに行くかわからない生き物みたいな会話ができて、自分と違いすぎて気持ちが通じてるのか不安になって居心地が悪くなるのでもないし、自分と同じすぎて想定の範囲内でわかりきったやりとりしかできなくてつまらないわけでもない、自分ではぼんやりとしか把握できていなかった感情を言語化しあえるような痒いところに手が届く会話ができるひと、会話が楽しくていつまでも続くということ。
そんなのいちばんの魅力に決まっている。
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