そんなこともあるよ、という不幸自慢
訳知り顔な大人になんてなりたくなかったし、そんな人間にはなるはずがないと思っていたのに、気づけばしっかりその道を歩み始めていて参ってしまう。
最近1歳になった甥がつかまり立ちをはじめて、いろんなとこにつかまっては立っている。
この間は食器棚の炊飯器を置く場所につかまって、そのまま棚板と一緒にスライドされて後ろに倒れ、甥大泣き。
火がついたように泣くとはこのことか、という見事な泣きっぷりだったので、そこら辺にあった紙で扇ぎながら「まぁそういうこともあるよ」となだめていたら、義姉も「そんなこともある。毎日ある」と言いそえてくれたけど、そんな論理は通じるはずもなく、引き続き大泣き。
生きてれば、出てくると思ってなかったものが出てきてびっくりしたり、引っ込むと思わなかったものが引っ込んで痛い思いしたり、そんなことばかりなのだよ、甥よ強く生きろ、と励ますつもりでなだめるつもりで扇いでいた。
でもそれって私が子供の頃に言われて、「そんなこと知らん!」と内心ブチギレてた言葉だなぁと家に帰って1人になった時ひとしきり反省してしまった。
甥からしたら、それが良くあることなのかとか教訓とか人生の真理とか知ったこっちゃなくて、ただただ痛い転んで痛い今痛い、それだけ。
私の子供の頃にも「大人になったらもっと大変なことがある」とか「社会にでたらそんなんじゃすまない」とか言ってくる大人がいた。そんな大人たちをみんな理解のない大人だとみなして、諦めとともにちょっと軽蔑してた。あんなふうにはならないと思ってた。なのに。参った。
ついつい先を歩くものとして励ましたくなるものだけど、それって結局自分の話したいだけなんだろうな。
「自分の経験からしたら、そんなこと大したことないよ」ただの不幸自慢だし、あわよくばそうした経験をねぎらって欲しいとか讃えて欲しいとか気持ちが透けてみえてしまって、あぁ恥ずかしい。
私の身近には反面教師しかいなくて、子供の頃に憧れてたような大人は物語の中にしかいなかったから、いい例に触れてこなかったこともあるけど、それにしたって反面教師から得た教訓も活かせてない。
どんな言葉をかけたらどんな反応をしたら、理解あるいい大人だったのかな。
そもそも子供が憧れるような大人ってフィクションの中にしか存在しないのでは、と思えてくる。
それほどいい大人になることは難しい。
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