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スウェーデンの森でキノコ狩り

 潤った草やアスファルトに太陽の光が跳ね返って、きらきらしている。歩くと空気はぱりっとしていて、吸い込むとつーっと鼻が痛くなる。私にとってこれが、冬が近づいてきたことに気付くにおいだ。マフラーをしなかったことを後悔しつつ、たくさん歩けば暖かくなるか、と家に戻ることはしない。そんな面倒くさがり屋な性格だからこそ、後々寒いだの風が強いだの文句をいうのがお決まりなのだが、連れにはこんなことをいわれてしまう。

Det finns inget dåligt väder, bara dåliga kläder――悪い天気などない、あるのは悪い服だけだ。

 スウェーデンではお決まりの言葉で、秋から冬にかけて雨が多くだんだん暗く寒くなってくる気候であっても、適応すれば(例えば暖かい服のうえにレインコートを羽織れば)、なんてことないのである。ちょっとした機嫌よく生きる知恵を教えてもらったみたいで、それから雨の日も私はあまり外に出るのを億劫がらなくなった。日本の街中でシティーガールとして生きていた私は、ヒールが濡れるのが嫌だの、混んだ電車で人の濡れた傘が服にあたるのが嫌だの文句を垂らしていたが、そうだ、そもそもそんな服も靴も天気に合っていないのならやめたほうがいいのだ。もう数回雪も降ったスウェーデンの街で、私はヒールを履かなくなった。滑るのが怖いし、汚れてなんぼなスニーカーを履きつぶすほうがなんだか心地がいい。
 スウェーデンに来てから他にも変わったことがある。秋のお散歩がもっぱらきのこ狩りになることだ。なるというのは、もちろんきのこ狩りを目的として出かけようという日もあるが、森を散策している最中におやっときのこに出会ってしまう時のことである。シャンタレル茸、秋シャンタレル茸、黒ラッパ茸、など、すこーし目を凝らすと、森にあちらこちらとあり、お散歩がきのこ狩りになってしまうのだ。雨上がり、少しぬめっているような草地や苔が最適。岩場でごつごつした斜面を見つけることも大事だ。シャンタレル茸は、高級でとっても美味しいきのことして有名なのだが、黄金のきらりとした見た目は、紅葉した落ち葉と似通っていて、実は見つけにくい。そんなきのこを見つけたあかつきには独り占めしたいのが人間の性なのだろう、スウェーデン人はたくさんのきのこを見つけたことは周りに言いふらすくせに、いざどこにあったの、なんて聞かれるとしらじらしく「あの辺」「忘れた」などとごまかすのである。かという私も、連れとのきのこ狩りでシャンタレル茸を見つけた際には、「ワッオワッオー」とシャンタレル茸専用の探知音を創作し、誰にも知られないふたりだけのきのこの場所を知らせ合う。シャンタレル茸は、あの黄金のきらりとした見た目で我々を惹きつけるだけでなく、バターのにおいがするというゴージャスっぷり。一つ一つを嗅ぐのもいいが、たくさん採ったあとバスケットの中に顔を埋めるのが至福である。苔の青臭さもまた一興。まったく、なぜアボカドが森のバターとの称号を得てしまったんだと思う。アボカドは私のスウェーデンの森生活とはかなり遠いところにいるので、シャンタレル茸こそ森のバターであると言いたい。
 スウェーデンに来て、森と自分の生活の距離が縮まってからは、きのこ狩りが日常に混ざり、そこにきのこのにおいが立ち現れることになった。採ったきのこについた泥や苔をきれいに取り除いて、乾燥させて、調理して、いただく。このプロセスが、私に私は広い世界のうちのちいさな有機体であるということを認識させてくれるのである。いわば、人間も自然の一部であり、自然は客体とはなり得ないのだと。スーパーにいるとなかなかこの感覚は湧いてこない。一度、買っているものとつながろうと、野菜を手にしたときに生産場所や国により意識を向けてみた。このズッキーニはそんな遠いところから飛行機に乗ってきたのか…このバナナもそうか…なんて考えているうちに私の胃袋はとっくにグローバル化されてきたのかということに気付く。グローバル社会に生きるのではなく、私はもうグローバルな主体に胃袋からなってしまっているのだ。いい、とか、いや、とかではない。ただ、きのこを狩るまでこの便利なグローバル化した市場に何の気付きも持っていなかったことにぎくりとした。――そんなことを考えて、昼間に採った秋シャンタレル茸の泥や苔をとりながら、今日はきのこパスタにしようと思いつく。きのこソースは、クリームに加えて塩とバターと黒コショウで味付けし、スパゲッティとあえた。今思い出すだけでも顔がゆるむくらいには上出来だった。

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