『贋物』の玉ねぎ
葛西善蔵は基本的に短編ものばかりだけれど、その中でもこの『贋物』は長い方であった。朝起きてからすぐに葛西善蔵全集の一編を読み、感想をこうしてNoteに書くのだが、朝の時間も限られているのでこれは数日かけて読むことにした。基本的には葛西の私的な体験――貧困と家族に対する金の無心――がテーマとなって描かれているが、その自虐的な自己描写、そしてその客観性をみていると、ではなぜ、どうにもその行動を改められなかったのかという気になる。登場人物として出てくる父、継母、弟、妻、友人の芳本などその全員が迷惑をしつつも何だかんだで援助してやっている様子をみていると、家族が不憫でならないうえ、その家族の言葉に共感さえ覚えてしまう。しかしその家族の言葉を葛西が自分自身で書き起こしているのだからまあなんとも恥知らずというか、こう、面倒なやつだなと怒りすらこみあげる。
さて、この短編では、耕吉という主人公が、家族に金の無心をして作家をしており、叔父から譲り受けた家寳を売りに東京に向かうというところからその題の理由が分かってくる。つまり、題名からすでにオチが分かっている。東京にとりあえず出て、あとは売った金で青森まで帰ろうという算段だったはずが、贋物であることが分かり金にならず、弟に帰り賃をくれと連絡するも十日、二十日と帰れずに芳本のもつ宿に居候する――。
金がないという日々は私も似たようなもので、スウェーデンで暮らしながら日本円でもらう奨学金は大変心もとない。いつも換金レートを調べ、うまいタイミングで換金しようと思うもタイミングを選べるほど余裕がないので金が必要になればすぐに換金、そしたらたまたま悪いレートの時だったというのはしばしばある。スウェーデンの物価はみなが想像するように高く、安いものといえば玉ねぎとじゃがいもくらいである。玉ねぎさえあれば味噌汁も簡単な野菜炒めもできるので、とりあえず玉ねぎは買いこむ日々である。しかしそんな安い玉ねぎも、たまに何枚皮をめくってもあの白いしゃきっとした部分にたどりつかないときがある。そんな時は、「贋物をつかまされたな――」と思いながら、わずかに少なくなった玉ねぎの味噌汁をかきこむのである。