『悪魔』と正直
良吉は雑誌を作る仕事に勤しんでいるが、金はなく、生き甲斐と呼べるほどのこともなく、日々鬱々とした気持ちに苛まれている。良吉は彼の周りにいる仲間たちを見てはその「生き甲斐のありさうな顔」を妬ましくまた不思議にも思うのであった。そうして自分とは違って生き甲斐をもって生きる人々とつるむ一方で、良吉は雑誌の印刷所(2階にある)から見下ろす人々――のんだくれであったり貧相な者であったり――を見下してもいる。生き甲斐のない良吉は、まるで自分が悪魔であるかのような妄想にふけりながら、仲間の一人Kを飲みに誘い、彼に霊魂の在りか、すなわち生き甲斐について語り、芸術家としてのあるべき運命――「地上一切の滅びの美」――を歩むようそそのかすのである。
悪魔のようなその彼の所業は仲間たちにとっても難儀なもののようで、彼は郷里に返されてしまう。確かに、毎日楽しく働いているあいだに、いきなり霊魂を説く同僚が現われでもしたら、その共同体の信ずるべきものに揺らぎが生じるだろう。良吉にとっての生き甲斐は、雑誌の編集や仲間との享楽にはなく、苦しみや貧困といった「どん底」を経験した先にある芸術の美を生み出すことにあると、そう信じてやまないようである。そして生き甲斐を既に手に入れたと考えている者、生き甲斐はもう手元にあると思い込んでいる者、そもそも生き甲斐なぞ一切考える余裕のない者――これら全てを良吉は軽蔑しているようにみえる。
このような危なっかしい良吉に惹かれてしまう理由はすなわち、その素直さにあると思う。彼は印刷所から人々を見下しながら「どうしてまた此の窓下を歩いて居る一人々々が、互い互いにぶつかり合って、砕けて、粉になつて、吹き飛んでしまはないのであらう――」とまあ猟奇的なことを言うのだが、人間だれしも口には出さずとも思っていることなんかを書き出せばこれくらい悲惨にもなるだろうと思う。
私の大学の先輩に、アナーキズム研究をしている人がいる。その人と私とは、理想とする社会のあり方は違うのだけれども、私が先輩を好きな理由は、その一心に自身の行っている研究の面白さを信じ、研究活動以外のこととなると堕落しているためであった。彼は自身の面白いと思う感覚を絶対的に信じ、一貫性のない人間を嫌っていた。彼の鋭く正直な言葉には非常に惹きつけられたが、同時にその言葉がいつでも私に向くのではないかと恐怖を抱いていた。私が京都にいる時分で思い出すことの一つといえば、500MLのペットボトルに入ったブラックコーヒーを横に置き、タバコを吸いながら読書をしている彼であった――。
私の根本を表すとすれば、怠惰である。スウェーデンでの私の生活は、何も生き甲斐を持って過ごすというのではなく、何もない日々を、人生の余白を、無駄にいたずら書きしているようなものだ。悪魔には印刷所から見下されているのだろう。