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自己紹介|こんにちは、高野清華(さやか)です。

 はじめまして!
もしくは、(すでにお会いしたことがある方は)改めまして!
人と地域のエンパワーメンター、高野清華(さやか)です。

 「人と地域のエンパワーメンター」の由来はこちらです^^

 今日は、できるだけ駆け足で、自己紹介を綴ってみたいなと思います。


赤ちゃんで、移住。

 1983年頃。実は生まれて間もなくは、東京の郊外に暮らしていました。東京出身の父と、熊本出身の母。上京して働いていた母と父が出会い、結婚。長女として私が生まれました。しかし、やむを得ない理由で離婚。赤ん坊の頃に、熊本の祖母が迎えに来て、母に抱っこされて飛行機で熊本に向かう写真が残っています。当時の機内にはCAさんによるそんなサービスがあったようです。今でも、自分の顔と同じぐらいの大きさのお煎餅を持って写っている、赤ん坊の頃の写真があります(笑)。

さやかは、おばあちゃんの、金魚のフン。

 幼い頃、母の実家で育った私は、すっかりおばあちゃん子になりました。米農家の祖父母。遠くに阿蘇山を眺められるような、田畑に囲まれた集落が、原風景となりました。田植えの前には、幼馴染などと裸足で田んぼに入って泥んこになって遊び、時には足をヒルに噛まれた記憶もあります。

 祖母が作った高菜漬けが大好きで、祖母が漬物小屋から出してきたばかりの高菜を、切ってタッパーに入れる前に、おやつに食べさせてもらいました。その、なんと美味しいこと…!あと、大好きだったのは「栗きんとん」。おばあちゃんの作る、栗きんとんは、今でも私の世界一です^^

 祖母のことが大好きだったので、小さい頃はずっと付いて回っていました。なので、家族から「さやかは、おばあちゃんの、金魚のフンみたいね」と言われるように(笑)。美味しい野菜を作り、美味しい漬物を作り、庭にはたくさんの花を植えて咲かせる、祖母のことが大好きでした。

 そして、この自然の中で思いっきり遊んだり、幼い頃からおばあちゃんの話をたくさん聞いてきた原体験が、今の自分にしっかりと、つながっているように思います。

初めての詩「本当の自分」

 いわゆるシングルマザーの母に育てられたのですが、祖父母を含めて優しい大人の人たちに囲まれて、のびのびと育ちました。たしか幼稚園の頃、まだ「父兄参観」と呼ばれていた時代に、母が来てくれていた。一生懸命働いている休みの日に来てくれたのでしょう。それでも、あんまり違和感を抱くことがなかったくらい、周りの人たちに恵まれて育ったのだと思います。

 そんな中、10歳頃のこと。ちょっと衝撃的なことが起こりました。その時、「自分のことは自分で守らなければ」と思ったのを覚えています。11歳頃のこと、生きるために、初めて詩を書きました。そのタイトルが「本当の自分」です。この詩のことは、また機会があれば書いてみたいと思います^^

教員になろうとした理由。ならなかった理由。

 しっかり者の祖母の背中を見て育ったからか、正義感の強い子どもだったように思います。小学生の頃も、弱い者いじめをしているような子を見かけたら、許さないで歯向かう。中学1年の頃、クラスで友達だった女の子に対して、急にいじめが始まりました。それを見て、私はその子を励ますような手紙を書いた。そうしたら、それがバレて、いじめの対象が私になりました。

 私は、強く「絶対に負けない」と思った。なので、当時の担任の先生に相談したのですが、その男性の先生は解決してくださらなかったのですね。それで、隣のクラスの気の強い女性の先生に相談をしました。そしたら、すぐにクラスのみんなに話をしてくださり、いじめが終わりました。

 この時、「(担任の先生が)いじめを解決してくれないんだったら、私が先生になる!」と思うようになりました。当時の私には、反面教師に映ったのですね。そこから、しばらくの間は、将来は教師になろうと考えていました。

 そして、大学生の頃。教員免許の取得に向けて、必要な単位を全て取得し、介護実習にも行き、残すは教育実習となった頃。実は、「教育実習に行かずに、免許取得しない」という選択肢を選びます。この頃の私は、NPOやNGOの活動に、のめり込んでいました。熊本県内は元より、夜行バスを乗り継いで、東京や大阪などにも行き、新しい、オルタナティブな世界を創ろうとしている社会人の人たちに出会うことが、とても楽しかった。そんな活動に没頭している私が、たとえ数週間であっても、子どもたちの前に立って、教育実習として授業をするのは、申し訳がないと、強く思ったのです。

目指しているのは、いつの間にか「世界平和」

 こんな風に、「誰もやらないなら、私がやる!」マインドは、なぜか子どもの頃からありました。気が付けば、小学校では児童会長をしていた。学校では元々、「人権集会」といった人権を考えるようなイベントがあっていて、そうした準備に奔走していたように思います。たしか6年生だった頃、児童会活動を終えて、教室にランドセルを取りに行き、吹奏楽部に行こうとした時。担任の先生が、「今日もお疲れさま」と書いたメモを、机の上に置いてくれていました。それが、今でも印象に残っています。

 中学校では、生徒会活動を。後に大人になってから考えたのですが、小さい頃の自分というのは、「世の中」がせいぜい家庭や学校だったと思うんです。その世の中が、より良くなったらいいなと思いながら、動いていました。それが、大きくなるにつれて、「世の中」がどんどん広くなって、学生の頃には日本とか、世界といった範囲に広がっていった。そして、いつの間にか、理由は自分でも分からないけれど、世界がより平和になったらいいなと願い、そのために、自分には何ができるだろうと考えて動くようになった。そんな感じです。

アメリカでの出会い。そして東京へ。

 環境や人権などのNPO活動に没頭していた、学生時代。海外に行きたいという気持ちが強く、アルバイトしてお金を貯めて、19歳でカナダへ1カ月の語学留学に行ったり、大学の交換留学制度を利用して、1年間アメリカ・モンタナ州へ留学しました。

 目的は3つで明確。当時は、まだイラク戦争が続いていた頃でした。なので、1つ目は、アメリカの政治は戦争をしているけれど、アメリカの市民の人たちがどう考えているかを知りたい。2つ目は、アメリカの環境や平和の活動家たちに会いたい(一緒に活動したい)。3つ目は、母国語以外の言語で、どこまで深いコミュニケーションが出来るかをチャレンジしたい。そして、自分なりに3つともしっかりとクリアして帰国しました。

 そんな2006年頃、アメリカにいた当時に出会ったのが、“Gaia University(ガイア・ユニバーシティ)” という、ちょうど設立されたばかりの教育機関でした。とある夜、たまたまインターネットで、その教育機関のことを知り、留学先の寮で大興奮したのを、今でも覚えています。すぐに直感で、自分が一生をかけてやっていくことはこれだと、分かったのです。

 Gaia Universityは、直訳すると「地球大学」。当時から、ワールド・チェンジャー(より良い社会の実現に向けて、社会に変化をもたらす人)を育成することを目指しており、世界中に「地域センター」がありました。いつか、Gaia Universityの日本センターを、地域が嬉しい形で創りたいということが、私の夢になりました。現在の社名・対馬地球大学は、ここに由来しています。帰国前に数週間、1人でアメリカを横断する旅の途中、Gaia Universityの創設者にも会いに行きました。

創設者のお二人と、ワークショップで出会った人たち

 帰国して大学を卒業する頃、実は卒業式の出席を待たずに(待てずに)向かったのが、東京でした。なぜなら、帰国後、熊本で参加したとある講演会で、“Democracy Now!(デモクラシー・ナウ!)”という、アメリカの独立系インターネットラジオ番組を翻訳して日本で配信するプロジェクトが東京で始まっていると、講師の方にお聞きしたのです。実は、留学中にこの独立系メディアに出会い、すっかりファンになっていた自分は、このプロジェクトに参画したいと強く思いました。

 知って、考えて、行動するのが、人間。であれば、より平和な世界を目指すなら、「知る」ということは本当にパワフルなことだと思っていました。マスメディアでは報道されないような大切な情報も、知ることのできる「市民メディア(オルタナティブ・メディア)」を創っていきたい。熊本から東京への上京は、その一心でした。

ライフワークの始まりは、海士町(あまちょう)

 そんな、2007年頃。東京でシェアハウス暮らしをしていた当時、とある講演会に参加しました。『懐かしい未来』(原作は“Ancient Futures”)の著者、スウェーデン生まれの言語学者である、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジさんの講演会でした。テーマは、「ローカリゼーション」。北インドのラダック地方を舞台に、行き過ぎたグローバリゼーションではない、地域が本質的に持続可能であるあり方を、模索するものでした。

 ヘレナさんのご講演をお聴きしながら、「今からは、地域だ!」と直感して、とってもワクワクしながらメモを取ったのを、今でも覚えています。それと同時に、「小さな規模の地域へ自分が行って、その中で地域の人たちと一緒に、地域がより元気になっていくことに取り組みたい」という強い思いが芽生えました。

 そうして出会ったのが、当時すでに、地域づくりの先進地だった、当時は2,400人ほどの離島、島根県・海士町でした。海士町への移住のいきさつ、海士で学んだたくさんの宝物、一生の恩師、大好きな島の家族などについては、また折を見て書いてみたいなと思います。

前・海士町長の著書、ヘレナさんの著書。人生を変えた本たち

 海士町で仲間と立ち上げた、まちづくりに取り組む「株式会社 巡の環(めぐりのわ)」(現在の「風と土と」)。そこで幸い、当時でいう、都市農村交流事業を町から受託し、現地のコーディネーターとして、交流プログラムを運営。全国からやって来る参加者と、地域の漁師さんや農家さんや郷土料理の名人などを、つなぐ役割を担うことになりました。

 これが、現在の「地域コーディネーター」としての原点になります。

 そんな中、生まれてきたのが小冊子『あまのききがき』シリーズでした。当時、地域の、自然や人と共生して暮らす、名人さんたちに、自分が現場で色んなことを教えていただくだけでは、本当にもったいない。この魅力や宝物を、もっと自分以外にも伝えたり受け継いだり、できないだろうか、と。

 地域の最大の魅力は、「ひと(人)」だと思っている私は、「ひと」を通して地域の魅力が伝わる媒体を作りたいと思いました。そうして、知人のつながりから、ありがたく、東京で活躍されているプロのライターさんやカメラマンさんにもご協力をいただいて、自分自身も編集・執筆を学ばせていただきながら、『あまのききがき』の制作に取り組みました。

小冊子『あまのききがき』

 このあたりの「聞き書き」のエピソードは、またいつか、書いてみようと思います^^

山陰で「聞き書きライター」、熊本・山都町で「地域コーディネーター」として生きる。

 2012年頃、当時28歳。聞き書きの活動を追求したいと考えていた頃に、ありがたくご縁をいただいたのが、ライターとしてのお仕事のご依頼でした。海士町でのつながりを引き続きいただきつつも、拠点を山陰・鳥取に移し、フリーランスとして開業し、「聞き書きライター」として活動するようになりました。

 その後に、熊本の実家に帰省した際にご縁をいただいた、九州のど真ん中、阿蘇山麓のまち、熊本・山都町(やまとちょう)で丸6年、暮らしながら民間の「地域コーディネーター」としてのライフワークに取り組ませていただきました。

講演会で参加者の声を聴く

 日々学びつつ、本業が、地域の力を引き出して活かす、「地域コーディネーター」となる、土台としての経験を積ませていただいたのがこの時期です。山都町でのたくさんのありがたい学びやご縁についても、また書いてみたいと思います。

そして今、国境の島「対馬」で。

 そんな中、2019年に山都町で、ゆくゆく国内外からの学び舎になればと思い活動していたとある廃校が、都市部から突然やって来られた、とある中小企業さんへ売却されたことを知りました。

 最初は非常にショックでしたが、次第に何か意味があるのだろうと思い始めました。そんな中で、ご縁をいただいたのが、長崎県の離島、対馬です。2019年3月に、初めて訪れ、ご縁を感じて4月末に移住して今に至ります。

対馬・佐護「千俵蒔山」

 現在は、対馬の北部に位置し、約50km先に韓国・釜山を眺められる、日本最北西端の農山漁村・佐護(さご)地域にある、旧佐護小学校を利活用しながら、地域の女性陣たちによる家庭料理の食堂「さごんキッチン」や、教室が生まれ変わったゲストハウス「さごんヴィレッジ」を運営し、体験・研修プログラム等を展開しています。

旧音楽室にある、食堂「さごんキッチン」

 2021年春にオープンした拠点での活動や、対馬や佐護の地域の魅力などについては、また綴ってみたいと思います。

 2007年頃からずっと、「地域まるごと学び舎」の実現を願いながら取り組みを続けて、18年目。地域の智恵や技や心に学ぶことが、より平和で持続可能な社会につながると信じて、対馬・佐護で、地域まるごと学び舎を目指す日々です。チャレンジは、まだまだ続いています。というか、きっと、ずっとチャレンジは続くのでしょう。

 今現在、同じような思いを持つ仲間との出会いを、お待ちしています…!詳しくはこちらをご覧ください^^

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