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2024年になり気がついてみれば、あけましておめでとう、の言い方をすっかり忘れてしまっていた。ここ二年の間見事に喪中であったため、新年を祝う挨拶からすっかり遠のいていたことに今更ながら気がつく。
くわえてその前は年末年始がかき入れ時の接客業などをしていたものだから、年末年始にある程度しっかりとした休みがあり大みそかに締め、正月に年始のあいさつなど仕事納めの翌日から仕事始めという慌ただしさにかまけてけっこうサボっていたなあ、と思い知らされた。
二年の喪中、祖母を相次いで亡くした。
そのことに対して振り返ろうと思いつつ二年が経っ。
ようやく、そんな余裕ができたのだろうか、少しだけ思い出してみよう。その前に、私の身に起こったことも多少振り返ろう。10月の半ばに転んで左腕を派手に折った。とんでもない粉砕骨折であった。そのおかげで県立病院に数日入院し、祖母たちのことをしみじみと思い出したのである。
父方の祖母は、まさしくこの病院で生涯を終えた。コロナ禍最初の年のお盆が終わってすぐに。末期の肝臓がん、余命はひとつきあるかないか終末期の緩和ケア病棟に入ってからやっと面会が許され、面会に行って一週間もしないうちだった。
虫の声すら死んだような静寂。おそろしいほど人の気配はない寂滅に近しいなかで、祖母の臥せる病室は空調の音の唸る音だけが私の耳に届いていた。
「おばあちゃん、この子が来たよ」
母の呼びかけで、黄疸により土気色に染まった手を伸ばす。しっかりと握ったその手はぞっとするほど冷たかった。もうほとんど死人の手で、やけに熱い私の手を握って手を合わせる祖母に泣きたくなった。
どうして、私なんかそんなに有難がるの。
まるでかみさまのように、ブッダのように、現人神が現れたかのように私に手を合わせて。
でも、だからこそなのだろうか。なにもせず、ただそこに在るだけのかみさまとして私はそこにいたのだろうか。
葬儀をすべて終えた後、祖母の家の玄関を開けた瞬間に腐臭に襲われた。それはお盆で仏壇にあげたスイカのにおい。だれも帰ってこなかった数日で暑さにすっかりやられてしまったのは想像に難くない。私の夏は、ずっとこの記憶が残り続けるのだろうと、漠然と思う。祖母は旅立ちのみちづれに、十年以上前に亡くなった祖父の小型特殊免許を持って行った。これがあればあとはなにも要らないと言って。
そんな夏が過ぎた冬には同居していた母方の祖母が転倒し大腿骨を折った。外交的なその人はこのコロナ禍の外出制限とか人と会って話すことができない時代にすこぶる相性が悪く一気に認知症を悪化させ、衰弱して死んだ。
最初から最後まで、実の娘である私の母をこき使って死んだ人なのであまり話すことはない。
県立病院は私が若いころに町場から山の方へ移転した。入院中ずっと霧がかった外を見ながら、これはうっかり川の向こうに行きそうなそんな朝を迎える場所。
そこを経て、あけましておめでとう、をやっといえるようになった。父方も母方もこれで葬儀の写真持ち卒業そんなはじまりを迎えた2024年、やっとこれではじまりなのかもしれない。