★スピリチュアル・ジャーニー vol.6 春分〜大神神社 神様に守られたおばあちゃん編〜
宇宙的なパワーで現実的な幸せを”引き寄せ”たところで、
私たちは、神様や自然や日本や地球、ご先祖様ー
そういうものとどう向き合っていけばいいのだろう?
理想の人生を自分自身で”引き寄せ”たとして、
その毎日の中にこれらの存在は、どう根付いているんだろう?
つまりは現代の中で“スピリチュアル”に、 私たちはどう生きればいいのだろう?
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こちらはインスタ投稿のフル本文です🦋
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誰もいかない、少し荒んで見える山道ー。
怖い気持ちもしながら、どうにも惹かれてその道を登る。
本当に誰も人がいなくて、やっぱり行き止まりなのでは?とも思った。
だけどたった一人だけ降りてくる男性とすれ違った。
私のお父さんくらいの年齢のその男性の雰囲気に、何か会社をやられているのか、とてもしっかりした雰囲気と忠実な信仰心・繊細な精神性のようなものを感じ、この道は荒んでいて少し怖いけど、きっとどこかの神社につながる「参道」なのだろうと思った。
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そのまま進むと、暗い道中には龍を祀る小さな祠や、綱と紙が巻いてある岩などがある。途中には廃棄物などが置いてある場所もあり、暗い雰囲気の坂道。
でもその先に何があるのか見てみたかった。
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名前は伏せるが、ようやくとある神社の案内が出てきた。
その隣には小さな家があった。
昔の商店のような縁側と少しあいたすりガラスの扉。
扉に紙が貼ってあり、
「はじめて来られる方 ご縁があったのですね。嬉しいです。無料でお茶をお出ししますのでどうぞお上りください。 2度目以降の方 波長があったのですね。嬉しいです。~」
そんなようなことが書いてあった。
その言葉の使われ方や雰囲気から、不思議と怪しい感じはしなかった。
私は少し空いた縁側の扉のところから「すみません」と声をかけてみるが、誰も返事がない。だけど電気はついていて誰かいるようだった。
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もう少し開けて中をのぞいてみると、部屋の中には大きく立派なひな壇のような神棚。
そして腰の曲がったおばあさんが部屋の中で何か探し物をしていた。
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「すみません」もう一度数メートル先のおばあちゃんに声をかけるが、耳が遠いらしく、その仕草から何も聞こえてないようだった。
少し扉も開けてしまったので引き返せなくなって、もう少し大きめの声で「すみません」と言ってみると、「あれ?まあ、はいはい!お上りください」と子供のように綺麗な目をしたおばあちゃんが部屋に上げてくれた。
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「どうぞ座ってくつろいでください。少し待っててください」と言っておばあちゃんはまた何かを探し始めた。曲がった腰で食器棚からカップを出し、コーヒーを入れてくれ、砂糖やお菓子を探してくれているらしかった。
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部屋の中には、古い振り子時計の振り子の音が規則正しく鳴り響いていて、大きな神棚には100円と書かれた木札が置かれていて、その上にはその木札を購入したらしい人の願い事と名前が書いてあった。
「身体健康 ○○」「開運祈願 ○○」などが並んでいて苗字などをみたところ夫婦で来ている人が多いようだった。中には「神恩感謝 ○○」というものがあって、私はその言葉をはじめて聞いたけどとても気に入った。
私以外にもこの家を訪れた人はいるみたいで、少し安心した。
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おばあちゃんはお菓子などを探すのに随分時間がかかっていたが必死で探しているようだったので、私は声をかけないようにした。
人の家に上がり大きな神棚の前で振り子の音だけが響いているのは、少し奇妙で、申し訳ない感じがして居心地は良くなかった。
だけど不思議と人を緊張させないような温かい雰囲気が部屋の中にはあった。
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おばあちゃんは「ごめんなさいね、こんなんしかなかったわ」と飴の入った瓶とぽたぽた焼きをを見つけ、コーヒーと一緒に持ってきてくれた。
私はただ通りすがりで無料でコーヒーを出してくれるだけでありがたいのに、お菓子まで必死で探してくれているおばあちゃんにありがたい気持ちと、何か時代が昭和にタイムスリップしたような不思議な気持ちになった。
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コーヒーを飲んでみると先ほど入れてくれていたようなのに、なぜか冷めていた。
「どこから来はったんですか?」そう聞かれて、「東京の方から」と答えると、「へえ!そんな遠くから。まだ若いのによお来ましたなあ。山道で大変でしたやろ」「私もこの神様や隣の神社があるからな、春と秋は毎日ここまで来てますねん。行者さんやずっと信仰してくれてる人もおるさかいな」。
確かに、丸い鏡や神様を祀ってある何段もある大きな神棚は、掃除をするのも大変そうだが、綺麗に整っている。
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以前、確か「神女」と呼ばれる沖縄のユタのようなおばあさんの動画を見たことがある。
いろんな儀式を経て代々「神」として仕事をしているかなり高齢のおばあさんだったが、目が水晶のように純粋でキラキラしていて、小さな赤ちゃんやあるいは神様のような軽い雰囲気があって印象の残っていた。このおばあちゃんもその人に似た雰囲気があった。
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「下に大神神社さんがありますやろ、私の家は隣ですねん。でも山道ですやろ大変ですねん」とおばあちゃんは言った。
確かにこの年のおばあさんからすると、参道を超えてこの坂道を登るのはしんどいだろうと思い「それは大変ですね」と言った。「ずっと大神神社の隣に住まれているんですか?」そう私が質問したところでおばあちゃんは
「うん、下に大神神社さんがありますやろ、私は家は隣ですねん」また誇らしそうに言った。「でも山道ですやろ大変ですねん」とまた先ほどと同じ表情で足を抑えて言った。
そして「はて、どこから来はったんですか?」と私に聞いた。
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おばあちゃんは、少しぼけているようだった。
だけど時々、会話ができることもあって、でもまた少しすると話したことを忘れてしまうようだった。
身なりもきちんとされていて腰は曲がっているけれど一人で動かれていたから、全然それまで気づかなかった。おばあちゃんは10回くらい家が大神神社の家であること、そして山中のここの神様をずっと信仰している人がいることを嬉しそうに語った。
昔この神社に一緒に初詣に来ていた、亡くなったうちのおばあちゃんもぼけていたのを思い出した。
「大神神社に?!そんなところにお家があるなんてすごいですね!!」私はなんども大げさに驚いた。するとその度おばあちゃんは恥ずかしそうにでも誇らしそうに「いえいえ、山道が大変ですねん」と言った。
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話によると、旦那さんがいて、交代でここに来ているようだった。だけどこんな山中の誰もいないところで、誰でも入れるお家になっていて、立派な神棚やいろんなものも置いてあり、おばあちゃんは耳が遠いし、少しぼけている。
ちょっと危険な気がした。
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でも私はそういう人が訪れないようになっていることに気づいた。
なんとなくこのあたりにそういう人を寄せ付けないような雰囲気がある。
おばあちゃん自身にも、人に悪いことをしようと思わせない、クリアな結界のヴェールが張られているような感じがする。
これはなんだろう?と考えたときに、大きな神棚に目がいった。
正確には、あれを神棚と表現していいのか分からないけど、床から天井まである大きく立派な棚で、鏡や蝋燭などが祀ってあり、神聖な雰囲気を帯びていた。特に上には鏡が二つあって、それが古くからの祀り方なのか分からないけど、パワーを感じた。
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大神神社の隣に住み、ずっと山中の一部の神様を守ってきた。
おばあちゃんはそれを誇らしそうに語っていた。
仕方なく伝統だからやってるという感じではなく、神様に誇らしく仕えているような、そんなニュアンスだった。
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このおばあちゃん、神様を信じ、ずっと大切にしてきたから、神様にとても強く守られてるー。
私は直感的にそう思った。
それは東京で人を見た時にはあまり感じない感覚だった。
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時間が経つのを忘れて、私はぽたぽた焼を食べながらおばあちゃんと話しをした。
おばあちゃんは話したことを忘れることもあるし耳が聞こえていないこともあるけど、普通に話ができることもあった。
東京に行ったのは中学修学旅行以来だといっていた。
めずらしい囲炉裏のようなものや黒電話があって、初めて見たと言ったらそれぞれについて話してくれたりもした。
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しばらくして私が木札を書きたいと言ったら、横に硯と筆ぺんが置いてあって、そこで書けると言った。
私はいくつかの願いごとを書いて、それを神棚に並べさせていただいた。
100円を払うと、おばあちゃんは「そんな、悪いなあ。置いておいて。有難うございます」と大げさにお礼を言った。
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神棚にもお供えしてもらえるのでwin-winだし、たった100円で、しかもコーヒーやお菓子までご馳走になっているのに、こんなに有難がってお金をもらうおばあちゃんに、私は変な感覚になる。
だけどすぐに、変なのは私の方にも感じた。
たった100円だったら、winwinだったら有難くないの?
10万円だったら有難い?
商売ならコーヒーを出すけど無料では出さない?
身内なら家のドアを開け、コーヒーとお菓子で出迎えるけど、見ず知らずの人には出さない?
神様はただの形式的な伝統?
現代ではそれが当たり前のように感じていたけど、
見ず知らずの通りすがりである私をただもてなしてもらった時、
日本の神様を敬い誇らしく語っているおばあちゃんの言葉を聞きどこか神様との繋がりを感じた時、
たった100円をとても有難く受け取ってもらった時、
私は何か忘れていた大切な感覚が解凍されたように感じた。
おばあちゃんはぼけているけど、もっとぼけているのは私の方なんじゃない?
おばあちゃんは小さなお餅のお菓子も出してきてくれて、ぽたぽた焼が食べ終わっているのを見るとまたもう1袋くれた。
「まあゆっくりしていってくださいな」
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お餅のお菓子を食べ終わるまでここにいようと思いそのまま過ごした。
おばあちゃんがまた私がどこに住んでいるのかを何度か聞いてきたので、私は自己紹介をしようとカバンの中に入れていた自分の新刊を出した。おばあちゃんに私の写真が載っているページを見せて、「これ、私、書いたの!」そういうと、「まあ!誰かに似てると思ったら。すごいことやなあ。こんなに書くの大変やろう」と興味深そうにじっと表紙を見つめて「本来の、自分でいるのが、最高の引き寄せの鍵、普通の、あの子が、ラッキーな人生を、いけてる、ひみつの、魔法」と帯をぶつぶつゆっくりと読み上げた。
おばあちゃんの口から「ひみつの魔法」という言葉が出てくるのは、なんだか可愛らしかった。
その後も字が小さくて読めませんわと言いながら、じっとページをめくって興味深そうに本を読んでいた。
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気づけば時計は正午を過ぎていて、外の雲行きも怪しくなっていた。
私はそろそろ帰らないとと思い「そろそろ帰るね」と言った。
「ゆっくりしていってくださいな」そういうおばあちゃんに、「雨が降りそうだから帰るね」と言った。
いるかわからなかったけど、おばあちゃんは本を読んでいたので「私の本は何冊も家にあるから、これはあげるね」と言ってあげた。またおばあちゃんは「え?!そんなん悪いわあ、いいの?有難うございます」と言った。
「気をつけてなあ。またなあ」「有難うございます」となんどもおばあちゃんは言っていて、私も神棚にお辞儀をし「またきますね、有難う」と言っておばあちゃんの家を後にした。おばあちゃんに言っているような、神様に言ってるような気分でもあった。
現代では、神社に行くと願い事をしたりする。
初詣だからパワーをもらいに、厄年だから厄を払ってもらいに、とお参りにいく。
だけどそれはその間、「自分のこと」を考える。
お守りを持ってても、「自分の願い」について考える。
儀式的に色んなことをするけど、
神様のことはほとんど考えない。
つまりは「実在するものとしてつながっている感覚」がない。
神様をたしかな存在としてお礼を言ったり感謝したり、敬い思いを馳せたりしない。
言葉を選ばずにいうと「古い儀式」や「自分の願いを叶えてくれる願い事ボックス」のように捉え、その存在を感じようとしない。
少なくとも私はそうだった。
どこかで神様や霊のようなものを迷信だと考えて信じず心を閉じていながら、「ワンチャン」に期待してあるいは悪いことが起こったらいやだからと、神頼みだけする。
でもそれって何かつながるべきものにつながっていない感じがする。
だけど真っ直ぐに純粋に、盲目的に「すがる」のではなくリスペクトし、神様とつながっている人の在り方を見て、何かDNAレベルで刻まれている精神性が刺激されたように思った。
私も東京に戻ったら机にきちんとお札を祀り、神様にお礼や感謝を伝え、敬い思いを馳せよう。
そんな風に思った。
義務感じゃない。なぜならその方が自分が「いい気分」だからだ。
ハートが水を得た魚のように潤う感覚がするからだ。
そういうことというのは、私のここ数年の体験からすると「真実」や「本質」に近いということになる。
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そばの奥に神社があると言っていたので、そこにだけ参って帰ろうと思った。
その神社は非常に怖い顔をした狛犬が二体、その奥をいくと小さな祠があった。
風が吹いていないのに、祠の横の飾りが揺れているような気がした。
ちなみに山を降りてから、
このおばあちゃんは名物おばあちゃんなのかと思って調べてみるととくにそういうわけではなかった。
そのあと何人か地元のタクシーの運転手さんにも聞いてみたりしたが、みんな大神神社には詳しいのに、そこの神社やおばあちゃんのことは知らなかった。
数年前にここを訪れた人何人かのブログを見つけたのだが、おばあちゃんはいたりいなかったりするようだ。
それからこの神社も地図には載っていないらしく、だけど熱烈な信仰者もいる知る人ぞ知る神社らしい。
蛇が多く祀られているらしかった。
ここまでの道中の不気味さについて述べられてるものが多く、神社も怖くてあまり長くいられない感覚を持った人も多いみたいだった。
私はそこまで怖さを感じなかったけど、山を降りる途中で調べなくてよかった、と思った。
だけどその不気味さすらも、何か神聖なものを守るためのものなのだとしたらー。
大局的な目で見ると、やはり不気味だから気が悪いから「悪」というわけでもないとも言える。
つづく