【TOKYO Diaries vol.2】センス・オブ・ワンダー〜ミラクルの見つけ方〜
「引き寄せの法則」や「ミラクル」という事を想像するとー。
多くの人にとって眉唾もの、
あるいは「年商100億円」「宝くじ1等賞」
そんな大きな事を想像して、
「宝くじ、当たれ当たれ!」と思いながら購入し
「ほらやっぱり当たらなかった〜"引き寄せ"なんてない。地道に生きるのが一番」
となった経験があるものかもしれない。
「引き寄せ」については多くの関連本を読んでなかなか研究してきていると自負する私からこの事について、
「宝くじ1等賞」は可能なのか?
というところについてお伝えさせてもらうと、
「可能だが、非常に難易度が高い」という事になってしまうと思う。
なぜかというととてもシンプルで、
それが「叶わない」と心の底で思っていると、
それが「叶わない」現実が"引き寄せ"られるからだ。
そして長年の人生で形成されてきた強固な
「叶わない」の認識を変えるほどに
私含め多くの人が「宝くじ1等賞」を心底望んでいなかったりするものだ。
だけどとても心が震える、
ワクワクする理想があるんです。
そんな理想は自分さえいい気分で叶うと思っていればきっと自分にとって最良のタイミングで叶うのだけど、
それが信じられない人も多いと思う。
そこでおすすめしたいのが、
人生に「センス・オブ・ワンダー(不思議・ミラクルへの感受性)」
を取り戻す事。
「普通に考えてこうなる」という一般常識じゃなくて、
奇妙な可能性の方に、すこしだけ心を開き、好奇心を持つことだ♡
あのタイミングであの人に会ったのは、今にしてみれば不思議でー。
どうしてあそこで自分があの決断をしたのか分からないけどー。
そんなフレーズが人の口から出てきたり、
もしくは自分自身が体験したことは、
誰でも人生でどんなに少なくとも1度はあると思う。
「たまたまでしょう」
「運が良かったんでしょう」
「その人は特別だったんでしょう」
"センスオブワンダー"が閉じている場合、
多くの人がそう片付けてしまう、
小さな日常の一場面。
だけどその「たまたま」「運が良かった」「特別」とはなんだろう?
「特例」のような出来事は、どうして起こるんだろう?
「特例」とされていないものは疑わず受け取れるのに「特例」とされているものは疑い人生に招き入れないのは、どうしてなんだろう?
そもそも自分にとっての「特例」は、誰かにとっても「特例」なのか?
そんな風に問いかけて、
直視してこなかったことに目を向けてみるのは、
現実逃避というよりは、
むしろとても現実を直視することのように思う。
「センスオブワンダー」に興味を持つことは、
実はとても現実的で近未来的な思考だと思うのだ!♡
さて、話を戻すと「センスオブワンダー」。
私もまだまだ開いていきたい感受性ではあるけど、
とても身近な「センスオブワンダー」のお話を思い出したので、書いておこうと思う。
私は人生の節々で、詩や音楽の歌詞にセンスオブワンダーを感じることが多くて、そのお話だ^ ^
私は1社目の会社を3ヶ月で辞めたのだけど、
話はその頃までさかのぼる。
(今引きは2社目を辞めた話なので、それよりずっと前だ)。
旅行会社のカウンターセールスをやっていた私は
店の中で、今にして思えば少しだけ不思議な体験をしている。
当時空前のアナ雪ブームで、
店内では、何度も何度も
「レット・イット・ゴー~ありのままで~」が流れていた。
この頃のことは社会人1年目、もう随分前の話になるから、あまりブログなどでも書いてきていないのだけれど、
当時私は大学を卒業後、コピーライティングや制作の仕事がしたいと思っていたものの就職活動で全くうまくいかず、旅行代理店に就職した。
旅行が好きだったから、まあいいか、と思っていたけど、
どこかでずっと、言葉やものづくりの現場の仕事に就くことがもう叶わない人生になってしまったことを悔やんでいた。
そしてそんな状態で割り切って容量よく仕事をこなせるほどに私は器用ではなかった。
同僚たちは多くの営業件数獲得を目指してセールスをテキパキこなしていく。
もともと体育会系ではない私は、朝ビラ配りに行くところから身体が重かった。お客さんへの接客は気を使いすぎるわりに上手くいかないし、電話が鳴り響く店内で顧客リストに情報を入れていくのも、業界用語を暗記するのも全部苦手でとても疲れたし、何年もこの仕事をすると思うとずっと地獄が続くように感じた。
さっさと結婚してしまおう、と思いながら、
何かこのまま人生がなだらかに終焉に向かっていく気配が少しだけ寂しかった。
よくできる体育会系のキラキラした先輩たちも苦手(先輩たちもやる気があるんだかないんだかよく分からないふわふわした私をよく思っていなかったと思う)だった。
体育会系の立派な人たちを見ていると、怠惰な自分がとんでもなくダメな人間に思える。
嫌なところに目を向けると、何もかも全てが嫌になった。
言葉やものづくりの仕事に関しては、
何の確証もないけど惹かれるものを感じて
絶対そういう仕事に就きたい!そういう仕事なら好きになれる。
と確信めいたものがあっただけに、全然就職活動がうまくいかなかったのはとてもショックだった。
そんな就活あるあるな憧れに敗れた直後で
どんよりとしていた私に、
レット・イット・ゴー~ありのままで~
は、とても鬱陶しいものだった。
にも関わらず、大流行していたこの曲は、
サブリミナルのように、繰り返し繰り返し店内で流されていた。
風が心にささやくの
このままじゃ ダメなんだと
ありのままの 姿見せるのよ
ありのままの 自分になるの
どこまでやれるか
自分を試したいの
悩んでたことが うそみたいね
だってもう自由よ なんでもできる
私はアナ雪が流れる度、
会いたくない苦手な人に遭遇してしまったような気持ちになった。
これでいいの 自分を好きになって
という歌詞が聞こえる度に、
今の自分や人生を好きになれない毎日が嫌になる。
これでいいの 自分を信じて
という歌詞が聞こえる度に、
自分をある程度信じて就職活動がうまくいかなかったことが思い出される。
自分を信じたけど、夢は叶わなかったじゃない。
自身の考えや言葉や行動よりも「沢山の人」や「優秀な同僚」のそれの方がずっと信じられることを悲しく思わないわけではなかったけど、その歌詞はとても夢物語に聞こえた。
だけど少し気分が悪くなるほどに繰り返し流されるうちに、
少しだけ想像を膨らませることもあった。
もし、もしもありのままで自由に生きたならー。
今の仕事を辞めて、もっと自分らしくいられるような仕事に就けたなら?
この曲のような気持ちになる可能性はあるんだろうか?
自分を信じ続けたなら、そしたらもっと自由な世界が待ってる?
この歌詞はやっぱり、子ども達のためのディズニーのただのおとぎ話なんだろうかー。
なんでそんな曲が、こんなにも私は気になってしまうんだろう?
私はそれまで、いわゆる「一般的な人生のルート」を外したことがないタイプだった。
何なら独りよがりに自由を追い求めるそういう人を少し軽蔑していたくらいで、いい大人になってー。もっと堅実に生きればいいのに、と思っていた。
他人(ひと)の目も人一倍気にするタイプだったから、仕事を辞めるとどう思われるか?を考えるとブレーキしかかからなかった。
3ヶ月で仕事を辞めることで、職場に迷惑をかけることや、忍耐だとか、何かを乗り越える力だとか、信用だとか、取り返しのつかないいろんな大きなものを失うような気もした。
そんな中であの曲はー。
不思議とそんな自分の心に入ってきてー。
ただ繰り返されているから耳に残る、というよりは、胸の奥に誰かが訴えかけてくるような、そんな響き方だった。
どうしてまだスピリチュアルなことにも関心がなく、自由人を嫌っていた自分の胸にあの曲があんな風に入ってきたのか、やっぱり少し奇妙なのだ。
後にも先にも「アナ雪」があれほのブームになったのはあの年だけだけど、
もしあの曲が繰り返し店内で流れていなかったら、私は早期に転職をする決断をしていただろうか?と思うと不思議で。
当時「辞めること」をインスパイアしてくる友達も本もなくて、
ただあの時あの店内でサブリミナル的に繰り返し繰り返しあの曲が流れていてそれがなぜかとても気になったことが、
「ルートを外れてみること」の強烈なファクターになったのだ。
その後私は
激辛坦々麺を食べても味がしなくなったことで1社目の会社を辞めることを決め、2社目の会社に転職することになる。
もちろん、これは「辞めること」を美化したり、推奨するための話ではない。
今では大切なのは自分の「いい気分」だと思うので、環境を無理に変えても変えなくても、自分の気を変えればきっと流れが変わると思うからだ。
そして何かを続けられる人や、努力して乗り越えられる人達をとてもリスペクトしている。
私は病的に、好きなこと・興味があることしか続けられないし、そこに全く関係のないことを努力で乗り越えるスタミナも皆無なようだからだ。
つまりは要領がよくないのだ。
要領がいい人や、そうでなくても努力で乗り切り一つのことを続けられる人たちは、人間として立派だったり、何か揺らぎのない確固たるオーラを感じる。
それを前提とした上で、
アナ雪を聞いて会社を辞めた頃の自分に言葉をかけるならー。
心からの「あっぱれ!!!」だ。
よく頑張ったね、という慰めとかではなく、
本当にありがとう、、あっぱれ!!なのだ。
(お神輿を担ぎお祭りを開催したいくらいの気持ちだw)
それくらい、
今こうして東京で、
時にものを作る制作の仕事をしたり、本を書いたり、
ブログや本を通じて私を知ってくれたみんなにこうしてメッセージを書いてみて届けたりしている道が開けてよかったと思っている。
当時".嫌な気分"のまま「セールス」の仕事を努力して頑張ることをしていたら、今の道には来ていなかったか、もっともっと遅くなっていたと思うのだ。
そして不思議なのはー。
今、当時の自分の
「一般的なルートに乗る常識」を「外させるために」私が何かテレパシーのようなものを送れるとして、
何がベストか?と考えてみると、
「店内でアナ雪の音楽を流し続けること」
だと思うのだ。笑
これ以外に無駄のない完璧な打ち手はなくて、
当時の私は本を読む気力も人の言葉に耳を傾ける気力もなかったし、
店以外では音楽を聞いてもそんなに心に響かなかったと思う。
店内で一回流れただけで心に留める直感もなかったから、
繰り返し繰り返し、サブリミナルのようにあのメッセージを流し続けるのが
一番当時の私を導くのに効果的だったと思うー。
曲の歌詞も、「はじめてレールを外れること」を謳っていて送りたいメッセージにぴったりだった。
音楽や本や、アートや芸術というのは、時に作者の祈りのようなメッセージが込められていたりする。
ある日何かの体験をし何かに気づいた人が、
同じ道で迷える誰かを光の方へ導くように、
自分らしくあれるようサポートするように、
心の奥から祈りのバイブレーションを発して
ものを作っていることがある。
そしてそういう音楽や言葉や、芸術はー。
不思議な引力をもって、私達と希望のルートや明るい道を進む未来の自分を結びつけてくれたりする。
実は人生の中には、
そんな不思議なメッセージで溢れている。
時に自然や、風や、何気ない人の言葉などもー。
そのタイミングや一致したニュアンスは
まるで全て完成されているミュージカルのようで
とてもミラクルなことだ。
"そのタイミングでそれに出会う確率"は世界の情報量で考えるととてつもなく低いのだ。
いきなり宝くじが当たるようなミラクルを叶えようと躍起になるよりも、
風を感じるような繊細さとハートを少しだけ開いてみて小さなミラクルをちゃんとキャッチしてみると、人生はきっとワンダーのある面白いものになる。
そして
不思議が起こる可能性に自分が心を開いたことで
「普通に考えてルート」だと起こらなかったことがときどき"引き寄せ"られるようになったりする。
その道に私たちを導く
不思議な引力に気づく直感力と
心を開く感覚ー。
それこそがセンスオブワンダー。
きっと私たち人間がこれから未来に向けてもっともっと開いていくことになる感性だ^ ^
少しミラクルな扉を開けようとしているあなたへ
Sayaka.より