大きな家
今回は、私が義母の遺品の整理をするにあたって感じたいろいろについての話です。
前置きとして、義母は夫が19歳のとき、今から30年くらい前に病気で亡くなっている。
私も今年の三月に父を亡くしたのだけど、親の死がどれほど悲しくて辛いことかがはっきりとわかった。心の一部が抜け落ちたような喪失感を常に感じながら、なんとか日々の生活をこなしている。40過ぎの私がそのくらいの打撃を受けているのに19歳で母親をなくすなんて、その場で自分も死んでしまいそうなくらいショックであって、夫はそれを乗り越えて今があるというところに、本当に大変だったねと抱きしめる気持ちだけれど、当の本人は案外あっけらかんとしてみえる。
時間が解決するとはこのことなのか…私がその境地に至るのはいつになるのだろう。
今住んでいる家は、夫が生まれ育った場所で(厳密には生まれは違う)築40年近いけっこう年季の入った一軒家だ。ここに私と夫、娘の三人で住んでいる。
どこも引っ込んでいない完璧な長方形のどっしりとした2階建てで、屋根は甘栗みたいな色の瓦屋根。2階は3部屋にプラス納戸、1階はキッチン、トイレ、お風呂、リビングと和室になっている。
娘が小学生になる前にリフォームを、と思っていたそのタイミングが今年訪れた。
それは同時に義母の遺品と向き合うこととイコールなのであった。
結婚して越してきたとき、大きな家の収納の三分の一ほどは、義母の遺品に占められていた。
どこの収納を開けても物が入っていることに軽く絶望しながら、まずは自分の荷物の置き場を作り、遺品の中で使える調理器具や裁縫道具などは継続して使わせてもらった。
"捨てるな!"と貼り紙のされた漆塗りのお道具箱一つを義父に見せられ、これ以外は全部捨てていいといわれた。その時点で義母の遺品の整理を一任されたと同義なのだった。
しかし、捨て方のわからない物、全てに分別が必要な細かいものがびっしりと詰まっているホコリだらけのダンボールを見ては、ふっと意識が遠のき、見なかったことにして、脚立を使わないと届かない天袋や押入れの隅っこへ追いやっていた。
いつかはやらなくてはいけない。しかし、それは私が?と思う気持ちもあって、なんとも腑に落ちないところだった。
しかし、父の死を経験してからその気持ちがすこし変わった。
今はまだ父の遺品の整理にまで手が回っていないけれど、それらをいる、いらない、燃える、燃えないなどと分別することのたいへんさは、体力的にもそうだけれど、精神的に相当疲弊すると想像できる。
幸いうちの父は、引っ越しを何度かしたこともあって物自体は減らしてきたからそこまで苦労はしない…いや、どうやって捨てたらいいのかわからない謎の電気工作品がたくさんあるんだった…やや規格外の遺品の整理をうちは抱えている。それを考えると憂鬱である。
私はなにかひとつでも父に思いを馳せるものがあれば十分だと思っているが、物に感情移入するかどうかは、人それぞれ程度が違うのでなんともいえないところだ。
それゆえこの家の人たちが当時どうしてもこれらを捨てられなかった、整頓する気が起きなかったと考えると、義母と面識のない私が一気にやってしまった方がいいと思うようになったのだ。
作業中はとにかく「無心、無心、無心」と唱え、何個もゴミ袋を用意し、分別していった。大きいものは夫に車で清掃センターに捨てに行ってもらい、細かいあれこれは見せなかった。
義母の遺品は、まさに彼女の人となりそのものだった。洋服や和服、靴やハンカチと身につける物から、着物の仕立て本やお琴の道具、たくさんの茶器、ケーキ作りの用具、まだ中身の入ったままのお化粧ボックスや立派な重箱とお屠蘇セットなどの趣味や生活のあれこれ。
古き良き時代の立派な母親だったんだろう…しみじみ思い知らされる数々の遺品を前に、私は義母からのメッセージをおのずと受けとり、背筋が伸びる思いがして、いつもより頻繁に仏壇に手を合わせにいったのだった。
そして今回はなにより夫の心情の変化に驚かされた。「母が好きだったから取っておいて」と新婚の頃に言っていた、花柄の食器セットの処分を決めたのだ。区切りがついたのか、と思った瞬間であった。義母が亡くなって30年経っていた。
そうしてすっかり風通しのよくなったこの大きな家は、なんとも軽やかな雰囲気になった。おかげさまでリフォームも順調に進み、各部屋が生まれ変わったようだ。
しかし義母がここで暮らしていたことを忘れるわけではない。むしろその時間はしっかりと家に染みついていて、これから私たちが作っていく新しい時間の土台となり、築かれていくだろう。
私は義母の面影を思い出す、ということはないけれど、このキッチンに立って同じお鍋を使っていると妙な気持ちになる。気配いうか空気というか、こんな風景だったのかなというイメージが湧いてくる。
こうやって家族みんなが、そこはかとなく"お母さん"を思い出せるような場所として、この先もここがあり続けられるといいなと思う。