容態急変、息ができなくて死にかけたとき何をして事なきを得たか。
私の場合は3歳の頃からほぼ33年間ほど喘息を患い、薬と突然の発作での夜中の診療や注射がかかせなかった。
当時は夜10時くらいに始まった発作を朝9時の医院の診療時間になるまでベッドで起きたまま夜通し待たされたため、息を吸うのに必死で汗だくで、
チアノーゼなんかは日常茶飯事だった。今だったら幼児虐待で通報ものだ。
朝になったらタクシーを呼んで2キロ離れた医院に行き、そこでも順番通り他の患者さんが終わるまで必死に息を吸っていた。
おとなになってからは発作の回数は減ったものの、風邪をひくと相当喉や気管支周りがひどく炎症になり結構な頻度であの世に一歩近づいた。
でも当時は救急車を呼ぶほどのものだと思わず、親にも我慢しなさいですまされ、苦しくて夜中に医院に電話をかけようとすればぶち切られるほど厳しかったのでその都度注射や薬で救われてきた。
我慢強さだけは培われたと思っている。
でも受け身のままで大人になったわけではない。
だんだん知恵がついてきて、あるとき本気で死に近づいた自分自身をその直前で救うことができたのだ。
喘息患者は普通、気管支拡張剤やステロイド系の錠剤と吸入薬を処方されて携帯する。ものによっては使えば使うほど根本治療を怠ると悪化するものがある。吸入しただけで発作を抑えて放っておくと次の発作がひどくなるのだ。
それであるとき、風邪をこじらせて気管支が腫れて膨満している状態で、当時住んでいた岐阜から500キロほどの実家に帰ろうと車を走らせていた。
途中まではよかったけど、実家のある県内に入ってあと50キロというあたりから本気で息が吸えなくなってきた。
まっすぐ走るのが精一杯だ。
「ヒュー、ヒュー・・・」
飲み薬は持っていない。その年代の頃には喘息発作もなくなりかかりつけ医もいないくらい楽になっていたから。
バッグの中をまさぐったけど気管支拡張剤は当然入っていない。
あと25キロというところで、かなり呼吸がヤバくなってきた。吸い込んでも入ってこない。相当腫れて気道が狭くなりすぎているのだ。
車のアクセルを踏み続けるも、酸素が入ってこないからそれもできないほどになってきた。
(まずい。ほんとにヤバいかも。このままだと家に着けない)
田舎の夜道。周りには街灯も家もない。景色が夜なだけではなくセピア色を通り越して彩度がなくなってきて、
あと20キロくらいのところで意識が飛びかけた。
さすがにまずい。車を路肩に止め、もういちどバッグをまさぐった。
すると・・・あった!!!
大人になって、炎症を悪化させるとあとが長引いて大変なので、
風邪をひいたらすぐに治すためにいろいろ試していたものの中にそれがあって、たまたま携帯していたのだ。
プッシュすると霧が出てくる薄紫の液体が入った手のひらサイズの薬品で、当時はドラッグストアでそれを買っていた。今は類似品でアズレンが含まれる商品が多数出ているようだ。
本来の使用方法としてはのどに直接噴霧するのが正しいやり方だけど、私は気管支が炎症を起こしていたときにそれを噴霧しながら吸引してその後の症状が急激に楽になることを知っていた。
メーカーに知られたらやめてくださいといわれるだろうけど、呼吸ができなくて生きていなければその話は聞けない。
たまたま持っていたそれをいつものように噴霧して吸引した。できるだけ広範囲に行き渡るようにするため日頃トレーニングしてきている。
しばらく息を止めて、広がるのを待ってからゆっくり吐き出した。
もはや一刻の猶予もない。ここで窒息して倒れたら翌朝まで見つからない。
苦しみもがきながらも、息ができるうちにもう少し走ってみよう。行けるところまで行ってみようと思ってアクセルを踏んだ。
10キロほどひた走った頃、わずかに吸える息が増えてきた。そして2キロ、3キロと近づくうちに少しだけ大きく息が吸えるようになってきた。だんだん息が楽になりつつある。
なつかしい街の明かりが見え始めた。
「ようこそ輪島市へ」
やった!助かった!
これだけ息があれば家に帰れる。途中に市民病院もある。
こうして無事に我が家にたどり着いた。
玄関の明かりはいつもより暖かい色に感じられた。
しばらくすると普通に呼吸ができるまでになった。
寝ている間に窒息したくないので就寝前にクリーンピットAZをもうひと吹きして、疲れて一瞬で眠りに落ちた。
新型コロナが蔓延していて、もし自分が罹患したら何をするか。
おそらく同じことをしていくと思う。肺までで届くかわからない。でも臓器は同じ場所にある。近ければそれなりの癒しにはなると思う。
でももちろん、できれば身近な誰もがこれを試さずに元気でいられることを願っている。