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言の葉


生きることは語ることだ。
「言葉」というのは、「人の心を種として葉が生い茂るように言(こと)は生まれていく」という意味で、1000年も前の日本人が作ったそうだ。生きることは葉が生い茂るように自分を表すこと。
今こうして生きているだけで、人は自分自身を語っているとも言えるけれど、声に出して、文章にして語ることが出来るのは命ある者の特権だから、私は語るという営みを大切にしたい。私の心を種とする何かを躊躇なく生い茂らせるような人になりたい。
その何かは、季節や天候によって若葉だったり、紅葉だったりするかもしれないけれど、そのどれにも目を向ける余裕のある人を、私は強く美しい人だと思う。

私が大学の時分に、とある小さな課題に提出した文章である。

事あるごとに思い出しては噛み締める。
19歳か20歳そこらの少女が書いた、今後も日の目を見ることのない文だが、何かを残そうと新しく文字を書き起こすこのような瞬間には、決まって思い返す。



語るという行為が好きだ。

文字を起こし、それが繋がって文章になり、私の口から音となって出て行ったり、あるいは黒い行列となって今こうしてあなたに伝わっていく。

私たちは知らぬ間に無数の語りの中で生きている。自分はいま、語っているのだといちいち思う隙間もないほど、人生は"語る"で埋め尽くされている。

そしてしみじみ思う。
ふと思ったこと、どうしても知っておいて欲しい感情、先まで残しておきたい私の頭の中の何かを、ずっとずっと先の未来の誰かにも手渡すことが出来る。生きている間に紡いだ私の言葉は、これから先も腐ることはない。

日本語が受け継がれる限り、この文字だって姿かたちそのまま、この言葉の向かいに腰を下ろしてくれた誰かに伝わっていくのだ。

そこから条件や背景は限りなく削がれている。伝えたいと思って言葉を起こした私がおり、理解しようと言葉を受け取り始めたあなたがいさえすれば良い。話し、聞く。書き、読む。

相互に目の前の相手を感じ続ける、究極にシンプルなこの行為に、私はしみじみと感動する。言葉というものは何と私たちを自由に、そして一つにさせてくれるのだろう。私は大好きなのだ、言葉という存在が。


小さな頃から国語が大の得意だった。
およそ文章を解読し、要約し、あるいは作文するといった教科としての国語において、解けない、出来ないという体験とは無縁であった。

文章Aで示された根拠がどの段落に基づいたものであるか。主人公はどうしてそのような行動をしたのか。このエッセイが主張しているもので、次の選択肢のうち当てはまらないものはどれか。この論文を読んで、あなたが考える新たな課題とその解決方法を800文字以内で作文してください。

どのような形式の問いであっても、私の指はスラスラと回答を記し、試験時間終了のずっと前に充足のため息をもってペンを置く。

どうやら自分がこの分野において秀でているらしいと理解した最初のきっかけは中学受験だったが、高校、大学と進み、形式がテストだけではなくレポートや論文に変わっても、私は常に最も秀でた結果物を生み出した人間として評価された。

ここで断りを入れておきたいが、私は決して神童だったわけではない。国語が出来るのと同じくらい、算数が出来ない子どもであった。中学受験では同時期の国語と算数の偏差値が40開いたこともある。(ちなみにこれは算数が数学という呼び名に変わっても続いていく)

ただ、私には理解が出来なかった。とんでもなく難しい算数のテストは簡単に満点を取ってしまうクラスメイトが、同時に主人公の気持ちを的確に汲み取れない。文章をよく読めば書いてある根拠を探し出せない。200文字に要約できない。全くもって謎であった。

だって説明してくれているのである。国語は全て、文章が教えてくれている。書いてある言葉のひとつひとつが全て、"伝えようとして"いるからこそ、いま眼前にあるのだ。


よくわからない円錐を勝手に斜めに切っておきながら、その体積を求める式を長々書かせて評価してくる算数の方がよっぽど意味がわからないではないか。

勝手に穴の空いた段差違いの水槽を用意して断りもなしに蛇口を開けたり閉めたりしておいて、それがいつ満タンになるのかを求めよと言われても困るのである。支離滅裂ではないか。

基本的に国語というのは"意味不明である"という状況から全速力で距離を取っている。

文章を書いた者が、言葉を挟んで向こうにいる相手に、伝えたい何かを確実に渡そうと試行錯誤して、文章というものは完成する。
わざとそうしない限りは、どうにかして言いたいことを伝えようとした結果が言葉となってそこに並んでいる。
そして読んでいる者はその時点で、理解することに全力である。

文章を読むという行為は、基本的に"筆者"と"読者"の間のモチベーションが合致しなければ成り立たない。

だから私は国語を解いている時、いつも嬉しくてワクワクしていた。
テストの問題であろうが何だろうが、単純にこの文章を書いた人の考えを知りたかった。物語の世界を、筆者がどのような言葉で伝えようとしているのかを目を凝らして理解しようとする、その時間が好きだった。


理解した瞬間は、いつも文章の裏の世界が透けて見える。幼い頃から私にとって、黒い行列が印刷された紙は湖面であって、その下に深い深い"文章に書ききれなかった伝えたいこと"の世界が広がっている。

それはおそらく一般的には"行間を読む"と言い換えられるだろうが、私は湖面の中を覗き込むことがとびきり好きで、熱心な星に生まれてきたのだろうと思う。首を突っ込んでも苦しくならないし、何色の水面でも躊躇なく顔を近づける。

湖面の奥底にいる、その言葉を紡いだ人の姿が見えはしないかと目を凝らして、そうかこの湖にはこんな魚がいるんだとか、光の屈折で見えなかったけど奥には全然違う水質の場所があるようだとか、だから湖面はこんな色に変わっているんだとか、そんなことをあれこれと考えるのが楽しくてしょうがない。

もちろんこれは、リアルタイムでの会話でだってされていることだが、私はどうやら白い紙(あるいはこの場合は画面だ)の上に黒い文字が浮かべられている方がより好きなようだ。
理解したいと思える対象が可視化されて目の前にあると、夢中になって覗き込んでしまう。

だから結局、私が国語が得意なのは、私がその言葉を理解することを期待して、全力でその方法を探したであろう誰かが向こう側にいて、その結果として並べられている言葉を受け取ろうと今度は私が全力になる、そのラリーが好きだからで、苦にならないからに他ならないのだと思う。

(だから、動く点Pが円を一周する時間を求めることがいかに重要か、について書かれた文章を読むときは、私はきっと興奮して湖面の奥を覗き見ることに努めるだろう。実際に求められるかは別として)

と、こんな文章を書いている私は、今度は私の言葉を誰かに受け取ってもらおうとしているわけである。
が、インターネットの海に私の言葉を流して、じゃあこの時の私は次のA~Dの選択肢どの感情が当てはまるでしょうと問題を出したいわけではない。


ただこんな風にして、私が語る言葉を受け取ろうと、この文字の前に腰を下ろしてくれる誰かに、ちょっと手渡したいのだ。

生きている私が感じること、ふと思ったこと、残しておきたいこと。



数えきれないほどの言葉に溢れたこの世はとても色鮮やかで、すぐに目移りしてしまう。

だからこうして、言葉をピン止めして、いつでも覗き込めるようにしておきたい。


願わくば、向かいのあなたの心に少しでも種をまく言葉であることを。


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