21世紀に起きた黒船の襲来

2001年に競馬界を震撼させた白き怪物クロフネが2021年1月17日にこの世を去った。後述するパフォーマンスと芦毛の馬体を持ちながらクロフネをいう馬名がとても印象に残る馬だった。

馬名の由来については当時の日本競馬界の背景を説明する必要があるだろう。

1990年~2000年にかけて、日本競馬界は多くの外国産馬の活躍が著しかった。栗毛の怪物グラスワンダー、今でも最強マイラーとして名前が挙がるタイキシャトル、テイエムオペラオーのライバルであるメイショウドトウ、女傑ヒシアマゾンなどあげれば枚挙にいとまがないくらいであり、当時は今とは比べものにならない程外国産馬が強い時代であった。

北海道の中小規模の生産牧場では自生産馬に限らず内国産馬、特に父内国産馬が重賞レースを勝つ度にその勝利に歓喜したものだった。

当時の外国産馬の強さを象徴するものに外国産馬のクラシック競走の出走制限であった。一般的に外国産いわゆる舶来品といわれているものは高いというイメージがあるが、サラブレットに関しては内国産馬よりも安く、そして強かった。だから自国の生産牧場を守るという大義名分の元に外国産馬のクラシック競走は長年制限されてきた。それは日本競馬界の諸外国に対する敗北宣言を意味するものでもあった。

現在では3歳馬のマイル路線の目標レースとなっているNHKマイルカップも当時は外国産馬の出走が目立ち、「〇外ダービー」という呼ばれかたもしていた。

その様な時代背景のなか、2001年に外国産馬の日本ダービー出走が解禁された。クロフネのオーナーである金子真人氏は、ダービー開放初年度にダービーを勝ってほしいという願いを込めて、江戸時代に浦賀に来港し日本に開国を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊の通称である黒船に由来して本馬にクロフネと命名した。

デビューしたクロフネは順調に勝ち星を上げていき、3歳(現2歳)の12月にラジオたんぱ3歳S(現ホープフルS)に出走する。このレースでクロフネは後に無敗で皐月賞を制するアグネスタキオン、翌年にジャパンカップを制するジャングルポケットと初めて顔を合わせる。

※余談であるがお笑いトリオのジャングルポケットのトリオ名はこのジャングルポケットに由来している。

このレースは後年、後のG1馬3頭が凌ぎを削ったレースとして語り継がれるレースとなっている。結果はアグネスタキオンが勝利し、クロフネはジャングルポケットにも先着を許し、3着となった。

翌年、毎日杯を勝利したクロフネはステップレースを挟み、日本ダービーへ出走する事となった。(当時、外国産馬が日本ダービーに出走する為にはNHKマイルカップで2着以内か青葉賞または京都新聞杯に勝利する事が条件であった。)調教師と馬主の協議の結果、クロフネはNHKマイルカップを経て日本ダービーに出走する事が決まった。

NHKマイルカップでクロフネはスタートがおぼつかず、後方待機を強いられる事なった。最後の直線に入っても先頭を走るグラスエイコウオーとクロフネには大きな差があり、当時レースを観戦していた私は内心クロフネの負けを確信していた。ところが、鞍上の武豊がゴーサインを出すと本馬は一気に加速をしていき、ゴール前でグラスエイコウオーを差し切り、半馬身差で勝利を収める。着差以上に強い内容で勝利した本馬は、最大の目標である日本ダービーへ出走する事となる。

※このレースについて鞍上の武豊は著書にて「仕掛けについては事前に考えていたタイミングの追い出しであり、勝つべくして勝ったレース」と述べている。

そして迎えた日本ダービー本番、クロフネは皐月賞3着のジャングルポケットに次ぐ2番人気に支持された。無敗で皐月賞を制したアグネスタキオンは屈腱炎を発症して戦線離脱となった。新たな対抗馬には皐月賞2着のダンツフレームが選ばれ、3強ムードとなった。

レースは重馬場にも関わらず、1000m通過タイムが56秒6と当時の日本ダービー史上最速タイムとなり、ジャングルポケットとクロフネは後方待機、前方に位置取っていたダンツフレームもハイペースを嫌って位置取りを下げて、三強が後方待機策を取る形になった。そして最後の直線でダンツフレームが早めに仕掛け、ジャングルポケットとクロフネがそれを追従する形になった。3強の中で一番脚色がよかったジャングルポケットが先に仕掛けたダンツフレームに一馬身差をつけ、第68代ダービー馬の称号を勝ち取った。クロフネは直線伸びを欠き、5着に敗れた。そして本馬はレース後、秋の天皇賞に向けて休養に入った。

※後年敗因として、ストライドの大きい本馬の走り方が重馬場をいうコンディションのせいで発揮できなかった事があげられている。

休養明け初戦として神戸新聞杯に出走したクロフネは、札幌記念でジャングルポケットを破った上がり馬エアエミネム、ダービー2着のダンツフレームに先着を許し、3着となった。その後、秋の天皇賞に向けて調整していたクロフネにある事件が起きる。

アグネスデジタルの天皇賞出走表明であった。

当時、天皇賞の外国産馬の出走枠は2頭で当初はメイショウドトウとクロフネとなっていたが、アグネスデジタルの出走表明により獲得賞金の低いクロフネが弾かれる形となった。

この出走表明は当時はマイラーとしての評価であったアグネスデジタルが直前で出走表明をした背景により、アグネスデジタル陣営は心無い非難を浴びる事になり、JRAにはフルゲートでない為クロフネの出走を認める旨の意見が上がる事態にまで発展した。

紆余曲折があったが、最終的にクロフネはかねてより考えられていたダート適正を図る為に天皇賞前日に開催される武蔵野Sに出走する事となる。これが最高の結果オーライとして語り継がれる事を当時の競馬ファンは知る由もない。

武蔵野S当日、ダート初出走ながらクロフネは1番人気に支持された。クロフネには出遅れ癖があったが、このレースではまずまずのスタート決め、中団グループに位置取る。そして残り1000mで徐々に位置取りを上げていき、まくり気味に3コーナーで先頭集団に並びかける。そして4コーナーで早々と先頭に立つ。「仕掛けが早すぎる」と私を含め当時レースを観戦していたファンはそう思ったに違いない。直線の長い東京競馬場でまくりはタブーとされている戦法であったからだ。しかし、数十秒後、それが杞憂であるとみなが思い知る事となる。

先頭に立つや否や後続との差がみるみる開いていき、まるでクロフネ以外の時間が止まっているのではないかと錯覚するほどだった。鞍上の武豊が後続との差を確認する為に大型ビジョンを2度見たが後続が映っておらず、股の間から除いて確認する姿があった。鞍上を含め当時起きていた光景がそれ程までに異様だったとうかがえる。そしてクロフネは後続に大差をつけて圧勝する。タイムは1分33秒3。

これは高速競馬となった現代競馬の芝1600mとタイムといっても誰もが信じてしまう程に異様なタイムであった。ちなみにクロフネがNHKマイルカップの勝ち時計が1分33秒フラットであり、最後は追うのをやめていた事を考えると本気で走っていれば芝よりも早く駆け抜けていた事は想像に難くない。この一走でクロフネは一躍ダート界の頂点に立ち、ジャパンカップダート(現チャンピオンズカップ)の出走を決める。

余談であるが翌日の天皇賞はアグネスデジタルが絶対王者テイエムオペラオーを下し、外部からの非難を一蹴する事となった。

ジャパンカップ当日、クロフネは前走のパフォーマンスにより一番人気に支持された。迎え討つのは前年覇者のウィングアロー、ダートの本場アメリカで一線級の活躍をしていたリドパレスと第2回大会をして世界の有力馬が集まる形になった。

スタート直後、クロフネは隣を走るジェネラシスロッシと接触し、出負けをして後方からの競馬を余儀なくされた。前々走までに見せていた出遅れ癖をここ一番で露呈する事となったが、それでさえ数分後に起きる出来事の前では些末な出来事であったと知る事となるが…

レースは3コーナーまでは淡々と進んでいき、そこから動きを見せる事となる。馬なりで先頭グループに並びかけるクロフネは前走と同様に4コーナー手前で早くも先頭に躍り出る。

「まあ、クロフネなら勝つだろう」と安直な考えが頭をよぎったがそれは違っていた。武蔵野S同様に後続との差がどんどん開いていく。他馬も当然仕掛けをしているのだが、まるで止まっている様に見える。前年覇者のウィングアロー、アメリカのリドパレスなどの一線級の馬がである。

江戸時代、浦賀に来港して日本人に戦力差を見せつけ開国を迫ったペリー率いるアメリカ艦隊黒船。約150年の時を経てアメリカ生まれの白きクロフネは、浦賀ではなく東京競馬場のある府中で日本競馬界との差をまざまざと見せつけていた。そしてクロフネは9馬身差の差をつけ圧勝。タイムは前年ウィングアローのレコードタイムを1秒以上縮める2分5秒9。2着に入ったウィングアローも前年よりも早いタイムでゴールしたが、「黒船」の前では無力であった。

この走りを見た外国関係者は「日本には白いセクレタリアト」がいると最大級の賛辞を贈った。

クロフネはダート2走にして世界最強の名を手にする事となった。そして日本競馬界が渇望するドバイWC、BCクラシック制覇が現実味を帯びた瞬間であった。

しかし、瑠璃は脆しというべきなのか、クロフネは屈腱炎を発症し、そのまま引退する事となる。クロフネを管理していた松田国英調教師は、この事を殺人にも等しい行為だと会見で述べていた。

後年ではあるが、2010年にナカヤマフェスタがドバイWCを優勝したが、もしクロフネが無事であったのなら8年は早い出来事であったのではないかと思うファンは少なくない。

引退後、種牡馬となったクロフネはフサイチリシャ―ル、カレンチャン、白毛馬初となるソダシなどの数々のG1馬を輩出し、先述したとおり2021年1月17日にこの世を去った。

クロフネの引退から20年経った現在、日本競馬界は稀代の名種牡馬サンデーサイレンス、その最高傑作であるディープインパクト、キングカメハメハの活躍で世界と対等に渡りあえるサラブレット生産国となり、諸外国に敗北宣言していた頃の面影はもうない。

しかし、この様な時代になった現在だからこそ、クロフネの様な圧倒的パフォーマンスで日本の競馬関係者をきりきり舞いさせるような「黒船」の襲来を私は一競馬ファンとして待ち望んでいる。



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