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COLD BREW 4
バスルームで水音がする。
バスタブには温かい半身浴に丁度いいくらいのお湯を張っていた。
髪でも洗っているのだろう。
手持ち無沙汰なので、またかつての恋人が壁一枚を隔ててバスを使っているという複雑な思いから、何かを作って気を逸らそうと思った。
その部屋はダブルになっていて、この時期では一番先に予約の埋まる部屋だと思われた。ハーバーヴューを臨める窓はないので不人気の部類ではあるが、夜景などを愉しむためだけに予約する部屋でもない。
その英国調の縞のキルトカバーのベッドの脇にデスクがあり、マホガニー材の彫刻の飾り扉を持ったミニバーが組み込まれていた。
冷蔵庫の中にはスコッチウィスキーとジンの小瓶とペリエ、生ジュースの缶、ミネラルウォーターに角砂糖と、ミルクは銀色のピッチャーに収められている。このホテルのランクが偲ばれる。米国からの不粋な炭酸飲料などは置いてない。
珈琲の粉はパウチされたドリップパックが並べられている。
グァテマラパルミラのパックを開き、カップにセットする。
電気ポットでお湯を沸かしていると、背後で浴室のドアが開かれた。
むっと入浴剤の匂いが漂ってくるが、呼吸を潜めて気にしないようにした。タオルがはたはたと音を立てて、水滴を拭う音が続く。
「ああ。何か淹れてくれているの」
「温まって眠って欲しいからね」
酸味を残しつつ抽出したドリップコーヒーに角砂糖を二つ、それの上からスコッチウィスキーを注いだ。素っ気ないプラ棒で軽くステアして、その渦巻きが水面に残っている間にミルクをたっぷりと浮かべた。
祐華は僕を気遣ってか、ドアの影で身支度をしていたが、デスクについている限り姿見にその様子はあからさまだ。裸身にタオル一枚で現れたら叱ってやろうと思っていたが、ホテルのガウンを纏う衣擦れの音がする。
その音が耳に届かないようにぺらぺらと喋り続けることにした。
「アイリッシュコーヒーだよ。第二次対戦前にアメリカとイギリスを飛行艇で結ぶ大西洋横断航路というのがあって。当時は暖房も気密もなくて飛行艇内部は寒くてね。それで給油ポイントのアイルランドで考案されたカクテル・・・とでもいうのかな。手元にあるのがスコッチだから本格的なものではないけれど」
「そう・・・何にしても温まるものなら歓迎よ」と祐華は裸足にガウン姿のまま現れてきて、僕の背後に立ってふたりで姿見の中で並んだ。
鏡の中で双眸が視線を交錯させる。
次に紡ぐ言葉もなく、意識が絡みとられている眼が居心地の悪さを雄弁に語っている。彼女がそっと肩に手を置いたので、その手にカップを渡した。手を離させるのだけが目的ではない。
ひと口飲んで「美味しいわ」と言った。
「店でならクリームをホイップして出してやる。ウィスキーも本場のカネマラを使うさ」
彼女はカップを手にベッドに座り、僕は椅子を持ち替えて正面に座ったが、頑として椅子からは降りなかった。
祐華は幼児がそうするように、カップを両掌で包み、指先を温めるようにして端から啜っている。
「もう眠ったら。薬が効いてくる頃だろう」
「そうね。ライトを暗くしてくれる。そこにいてね。これから独り言を言うから」と言ってシーツの中に包まった。
祐華は流産をしたらしい。
妊娠の兆候が現れた時の検査で子宮筋腫が発見されたが、経過観察でうまく着床してホッとしたという。しかしそれが破水して流産となった。再度の検査で筋腫が悪性とわかり摘出手術を受けたという。
「その時には全摘出はさけたのよ。もう一度チャンスが欲しかったけど・・・」と口をつぐんだ。
「傷跡を見る?」とシーツを開こうとした指を押さえた。
「ただの独り言なのに、無粋ね」と嘆息してこう続けた。
「旧家だったのよね、嫁ぎ先が」
跡取りを希求されている婚姻が、こうして彼女の居場所を奪うことになった。それでも結論を受容できる強靭さが彼女にはある。そしてデザイナーとしての生活力もある。
足りないのは心の空白なのだろう。
「手を繋いでくれるかしら」
傷のない右手を差し出した。再会した時に彼女は、傷は舐め合って治すものと言っていた。お互いの傷を確認すれば、その深さに慄然とする。熾火にしておいたものに種火を近づけてはならない。
そのうちに寝息が聞こえてきた。
僕の右手を握りながら、彼女の指が力を失っていくのを感じた。ナイトランプの灯がその横顔に影を差して見える。
いつか見た顔だと思った。
ばさりと手が落ちたので、それをシーツの中に戻してやる。そっと席を立ちドアを開けて、廊下から封印するように閉めた。
エレベーターホールで長いこと待たされて乗り込む。階下へ流れゆく壁に背中を預けるが張り付いたように動けない。
ロビーに到着して、やっとそれを引き剥がした。