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COLD BREW 1

 墨のような漆黒の水滴が滴り落ちる。
 芳醇な芳香を放つ水滴が滴り落ちる。
 その降り積もる液体を、カップを磨きながらただ眺めていた。焦点などは合ってない。手元のカップを気にしながら、店内を見渡していた。
 奥に細長い店内で、二人掛けのカウンターがあり、そこに大き目のCOLD BREW水出し珈琲用の抽出ドリッパーがある。その横には鏡を背にガラス棚が並んで、そこが僕の定位置になっている。
 どうやら看板の頃合いらしい。
 趣味が高じて、そして流されるように引き継いだ純喫茶だった。
 元々のオーナーの意向を受けて、水出し珈琲をメニューから欠かしたことがない。巨大なガラス試験管のような器具に、深煎りで細挽きの豆をセットして、一滴一滴がドリッパーからピッチャーに溜まっていく。コロンビアの豆をいれた特製ブレンドは、レシピ通りに計量して作っている。
 ピッチャーの水面が僅かに上がっていく理屈はわかっているが、そのはっきりとした変化を視認できることでもない。このまま店は施錠して、僕は家路に向かうが、この器具は朝までかけて芳香の源を落としていく。
 時間もできたことだ。
 夜更けまでバイクのエンジンでも磨いてみよう。そろそろ朝晩が涼しくなってきた。キャブのセッティングも変えてみるか。オイルの匂いを嗅ぎながら走れる時期も擦り減っていく。減っていく時間を充実したものに変換できるのが、成熟というものだ。
 もう一度、ピッチャーを見る。
 たっぷりとミルクを入れて、数分で飲み干していく俄の客もいるが、馴染み客はそれこそ一滴一滴を惜しんで、ゆっくりと味わっている。経済効果は甚だ悪いが、そんなお客こそを大事にしてきた。
 近年は珈琲さえクリームやホイップで飾り立てて、ストローで飲むのを善しとするらしい。あれはもう甘味であって、こだわりのある嗜好品ではない。
 扉の呼び鈴が鳴ったので、視線を送った。
「いらっしゃいませ」
 自分でも顔がこわばっていくのがわかる。
「ご注文は?」
「人生の後半生を」
「生憎とご用意しておりません。時間を彩るお飲み物以外には、ね」
「久しぶりね」
「もう5年になるか」
「4年と3ヶ月よ」
 いや、正確には4年と73日目だが、指摘するのは無粋だ。しかも僕が日数を指折り数えて、忘れる努力をしていたみたいだ。
「そうだったかな」
「変わらないね」
「いや、変わったさ。今は小さな喫茶店を持ってる。きみといたころには全てのものはきみのものだった。僕のは小さな珈琲カップだけだ」
 祐華は髪を切ったらしい。適度に小皺を寄せて、適度よりやや多めに脂も乗ってきた。自信に満ちた相貌はいかにも変わらない女だ。
 それでも機械的に取っておきのカップを選び、作り置きのほうの水出し珈琲を温め始めた。
「どうしてここがわかった」
「ねえ、私には興味ないの」
「そうだな。今は苗字でも変わったか」
「旧姓に戻したところよ」
「そりゃいい。印鑑を新しく作らなくて済む」
 抽出したばかりの珈琲はまだカドがあり、若い。そっとカップを置く。僕の出せる手札はここまでだ。
「美味しいわね。これが毎朝飲めるのが、あの頃の私を支えていたわ」
 祐華は肘をついて組んだ手の甲に顎を乗せている。それから小さく笑った。
「そりゃどうも。このまま通ってくれるなら感謝もするし、二度と姿を見せないでくれたら賽銭箱に万札を入れたくなるよ」
「あ。どうしても追い払いたいのね」
 滑るように祐華の指がカウンターを疾った。僕の左手を取って、強引に引き寄せる。そんなに力はないはずなのに抵抗することもなく、身体を折って祐華の瞳を覗き込む。
「あなたはね。私の初めての男。忘れないわよ」
 左掌の甲を確かめている。
 擦過傷痕が軟体動物のようにうねっている。おまけに左の薬指が第一関節で欠損している。
「傷は・・・やっぱり残ったのね」
 彼女を庇うことで負った傷だったし、彼女の命を救えた代償でもある傷だ。
「もう手袋をすることもない。こんな手でも珈琲は淹れられる」
「女はね、痛みを許容して生きているのよ。貴方がたにはわかって貰えないわよね」
「その分、君たちは僕たちの傷に無頓着だ。主に心の傷のほうだが」
「その傷は舐めて治すのよ。獣がするようにね」
 吐息が届きそうだったので、反射的に身を引いた。
「今晩のは奢りだよ。また来てくれると嬉しい」
「あら。ありがとう。また寄るわね」
 呆気なく祐華は席を立って、ブーツの音を立ててドアを鳴らせた。
 ほっとする自分がいる。ふと目をやると明らかにピッチャーの珈琲のかさが増している。そのくらいの時間がそこに積まれている。
 看板の灯りを落として、夜の街に出た。
 そうあの頃は、醸成する時間が足りなかったのだろう。
 若さが苦さになっていた。
 しかしながら苦さこそ、拘り続けた味だ。
 夜の雑踏の底に祐華の残り香を探していて、手袋を棄てた事を悔やんでいた。






 




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