COLD BREW 34
ことりと、腕時計を置いた。
スイスから届けられた時計。
金無垢のケースの中身は、精緻な構造の自動巻ムーブメントが収まっている。秒針は一秒ごとではなく、几帳面にゆっくりと回転する。機械的に一秒を刻む動きではなく、体温を持って息づいているようだ。
砂岩色の革のベルトは、16年を経てもくたびれてはいない。
ケースの滑らかな曲線と繋がる、特殊な形状のベルトは数回は純正交換されているだろう。ケースについた微細な傷は、常に愛用してくれた歳月を雄弁に物語ってくれている。
彼女は、時間に縛られるのを嫌った。だから自身で時計をつける習慣はなかった。それなのに、いつも肌身離さずつけてくれたようだ。
祐華の挙動ひとつで秒針が進み、息づいている。
そもそも自動巻きを選択した理由がそれだった。
あれは最初の同棲が始まった頃で、彼女は大学生だったが僕はまだ制服を着こんでいた。それでも工場で働いた給金を細々と溜めて、時計を贖った。生涯初めての大散財だったと思う。
祐華の時間は止めてはいない。
病室で、それを彼女に誓った。
日時は既に2日ずれている。ひと月は31日周期で設定されているからだ。これで2月を越せば5日は距離がずれるだろう。
だが生前の彼女が定めた日付を動かしたくはない。
僕はそれを常にポーチのポケットにいれて、揺らし続けることで螺子を巻いてきた。なぜならそのベルトが小さすぎて、この手首には付けられない。そもそも水仕事が多いので、自動巻きの繊細なムーブメントには苛酷に過ぎる。
古民家は年末の掃除を済ませたばかりだ。
祐華の遺品には手を付けられてはいない。
流石にトイレのスクリーンは撤去して、元々の引き戸に戻した。
和室に置かれたベッドのシーツも洗濯はできない。
灰色のケア帽も、末期のままの状態で置いている。
彼女の匂いを失いたくはない。祐華とここで過ごした時間は数か月でしかない。指先から零れ落ちるような残滓を拾い集めて、形にしようと藻掻いている。
魂を喪った無機質な檻のようだ。
ただ降り積もる埃を払うのみだ。
純喫茶は閉めていて、自宅で籠る歳末だ。
年越しに休暇分のサヴァランを用意する。
その仕込みすら物憂くて、手につかない。
バカルディをお屠蘇の代用として、サヴァランをおせちの代用として削り取って三が日を送るのだ。だが家の空疎感、寒々さで落ち着かない。
しかも大晦日には寝込んでしまった。
冷蔵庫を開くと食材があり、冷凍庫には保存食があり、過不足はない。料理をする気分がなくとも、保存食を温めるだけでいいはずだが、その気力さえも湧いてこない。
大晦日の空気を味わう隙も無く、元旦の朝になった。
猛烈な頭痛がする。喉が渇いている。
立ち上がって膝が抜けた。地面が斜めに傾いて迫ってくる。頬から落ちた。それで気力が湧いた。痛みは妙薬でもある。
歪む視界と笑う膝を叱咤しつつ、用を足してお茶を飲んだ。
洋箪笥の引き出しから体温計を取り出して計る。34.4℃という数値を初めて見た。信じられずに祐華のが使っていた方を試してみる。さらに低い数値がでて戦慄した。この眩暈は只事ではない。
低体温症という言葉が脳裏に浮かぶ。
だが対処法がわからない。まずエアコンをつけて室温を温める。ベッドに戻り、毛布に包まって考えた。119にかけて緊急搬送を頼むか。だがスマホはリビングで充電中だ。そこまで這ってでもいくか。
その思考が流砂に呑まれるように、奈落の底に暗転した。
覚醒した。
身体に重圧がかかっている。
柔らかな、それでいて粘質的な重圧。
腕に柔らかな感触が湧いている。吐息のようだ。
僕が体勢を持ち上げると、その重圧がすっと軽くなった。
「・・・起きた?気分はどお?」
毛布の中から声がする。
僕の裸の胸を滑る、長髪の感触がする。そして身動ぎをした彼女の体温がしっとりと剝がされていく。
「史華か・・・お前、裸なのか!」
「残念でした、下は履いています」
膝立ちになって、毛布の谷間から顔が出ていた。悪戯を窘められたように、ぺろりと舌先が見えた。
「心配したんだよ。返事もしなくて、紙のような顔色で。それでね、体温計のメモリ見ちゃった。びっくりした、こんなときは素肌で温めるんでしょ」
彼女には事態の詳細は伝えていない。が、祐華の死は知っている。そして付かず離れずの距離をとっていた。
その肌を支えたが、逆にたっぷりとした果実の感触がする。
嫌だぁ、でもそこで正解よ、の呟きに反射的に掌を引いた。
「何をしに来た」
「怒らないでね、貴方が無理をしているの、知っている。倒れそうだから支えに来たのよ」
その声音が震えている。
嗚咽を零す史華の頭に手を乗せた。その感触が届く前に彼女は僕の手を振り払い、馬鹿っと詰った。そのまま涙の溢れる双眸で見上げてきた。
「泣けない貴方のために今から泣いてあげるの、いい、これは貴方の涙よ」
「泣いてくれる君のために、報いるものが何もない」
「子ども扱いしないで、見返りなんていらないわ。女として見て欲しいだけ」
そうして熱い涙が、胸に直接拡がった。