COLD BREW 31
剥落の日々を送った。
通夜の案内すらない。
近親者で織りなす旧家の持つ嗅覚で、僕は弾くべき存在であった。
最期の瞬間まで祐華を看取ったとはいえ、法律上では赤の他人であって、親族からすれば腹に一物ある部外者という認識だろう。
彼女の窮乏を知り、そしてその病状を知り、それでも敢えて冷淡で在り続けた。彼らが密葬において、祐華の亡骸に涙したであろうその一滴でも、生前に流したことはあるのか。
銀行口座には再び300万という数字が印字されていた。
弁護士から連絡があり、銀行口座を教えたのだ。その額面で故人の荷物を処分いただく手間賃の旨の通知も届いた。
口止め料という趣旨だと、すぐに理解した。
納得はしていない。
その後に往復はがきが届いた。
曇天続きの空に紅葉が色なす季節だった。
都内の交通至便な場所にある斎場が、彼らのお眼鏡に適い、お別れの会の案内が関係各社に送付されたのだろう。
無論、そこには彼女の肉体はない。
振り返って微笑む遺影が、白花に飾られて壁面に据えているだけだ。
それでもその場に参列した。
仕事上の関係者の姿が多いのだろう、名刺を交換して談笑している席もあって神経が逆立った。参列しているこの喪服姿のなかで、何人が祐華の肉声を聞いたのだろうか。
ただ黙したまま香典を受付に預けて、葬祭場の折畳み椅子で読経を聞いた。系列店のメニューのように味気なく、心には届かない説法だと考えていると、係員に促された。そのまま長蛇の列に並び、ふたつまみの抹香を焼香台に散らせて式は予定通りに終了した。
会場を足早に抜けて、愛車に跨った。
不謹慎だと笑えば笑え。
僕に似合う安物の喪服は、皺を気にすることはないので、気が楽だ。ディパックに押し込んで背負った。
ヘルメットを被り、キーを回して、キックペダルを起こした。キック一閃でこいつは甦る。祐華の心臓はとっくに動かないが、こいつは獰猛な獣のような唸り声をあげている。
薬物的に甘いオイルの臭いが、白煙とともに吐き出している。ブリッピングを加えてやるとタコメーターの針が跳ねあがり、金切声を響かせる。
これでいい。
オイルの臭いで抹香の香りを塗り替えよう。
この咆哮が祐華に贈る鎮魂歌になるだろう。
喪中であっても店を閉めてはいない。
むしろ身体を動かしていた方が楽だ。
精神が苛まれている時は、自分には向き合っては駄目だ。負の感情に呑み込まれてしまう。殊に祐華の姿を目で追ってしまう自宅には長居をしたくない。
その日の昼下がりに、木製扉の呼び鈴が鳴った。
店内には誰も座っておらず、手持無沙汰にパン生地を練っていて、木製扉に視線を走らせた。
柔和に微笑む微笑にも、口元が歪んでいた。
辛かったわね、と独白のように言いながら店内に入ってきた。
祐華を美術部で受け持っていた兵頭先生だった。彼女は眦に薄く涙を溜めながら、小柄な身体を懸命に操ってスツールに攀じ登った。
「いやね、歳をとったら涙腺が脆くって」
乾いた笑い声をあげて、自分を励まそうとしていた。
先生の電話で、祐華の入院先が聖マリアンナ医科大学と知った。それがなければ彼女と同居して支えることも、最期を看取ることもなかった。
「すみません、ご無沙汰していました。僕もご連絡しようとは思っていたんですけど」
「いいえ、彼女のお別れの会には、わたしも出ていたの。貴方がいたのも見ていたわ。ごめんなさいね、声がかけ辛くって」
「いえ、こちらこそ周囲に気を配れなくって」
「無理もないわね」
彼女の水出し珈琲をカウンターに置いた。もう目尻は乾いていた。
「今日は話があるのよ」
「判りました」と捏ねたパンだねを発酵機に入れた。
カウンターの正面に立って、彼女の唇が動くのを待った。
「・・この店を伝手をたどって知ったと、お話しましたよね。その伝手っていうのが・・実は七瀬さんなの」
鋭利な刃物で心臓を抜かれた思いがする。その拍動が内耳まで駆け上った。打明けてしまって彼女は、ほっと毒気が抜けたような溜息をついた。
青葉七瀬、かつての婚約者の名前だ。
年上の普通の女性だった。
そして小花特有の愛嬌のある人だった。
例えるならば目立たない霞草のようだ。
花言葉も感謝とか幸福という凡庸さだ。
顔色を盗まれたらしく、動揺が落ち着くのを教育者はじっと堪えて待っていた。
「・・驚いたわよね。彼女もわたしの教え子だったのよ。貴方と婚約解消して。その後はちゃんと結婚しているわ。順調みたいね。もうお母さんになっているわ」
「その・・・彼女がどうして?」
「ええ、祐華さんの作品のクライアントだったの。旦那さんのデザイン会社のね。しかも七瀬さんが担当でもあったの」
彼女には祐華のような美貌はない。愛嬌と慈愛を瞳に宿していたが、それが刃に変わるだけの理由がある。
丸腰で恋に歩みゆく女性を、僕は知らない。
血流が脳髄を跳ね回っている。
その光景さえ想像したくない。
哀しい巡り合せもあるものだ。
七瀬に対して、祐華の仕打ち。
僕にとっても火傷の痕のように痛む。
それが契約関係に薄昏い影を差したのは、容易に想像できる。
「彼女からの伝言ね。貴方から連絡を欲しいそうよ」
丁寧に書き綴られたアドレスのメモ。
受け取る指が、小刻みに縺れていた。