6回目 税務調査の在り方について 5
「2 私の経歴(看板に偽りなし)」の続き
料調と査察の両方を経験して感じたことは、どちらも大変な部署であることに間違いないが、料調は精神的にきつく、査察は体力的にきついなということだった。料調では、常に任意調査の限界にチャレンジしているような感覚で、毎日が緊張の連続だったのである。査察では、膨大な差押・領置物件と格闘し、嫌疑者や多数の参考人と対峙して腱鞘炎になるほど質問顛末書を書きまくり、半年から一年かけて証拠を揃え、検察庁に告発して来たのである。
・・・<経験談⑥> 勲章と落胆
ここまでに、私は三人の子供に恵まれた。出張で家を留守にすることが多く、育児と家事は妻任せだった。私が子供の教育でこだわったのは、「嘘をつくな」と「弱い者いじめをするな」を守らせることだった。
ある査察調査事案での私の姿勢と結果が部長に評価されたのだと思っているが、私は預金保険機構(通称『預保』(よほ))に出向することになったのである。戻った時は、署の統括官クラスになれるという条件が付けられたものだった。
預金保険機構時代は、国税の他、裁判官、検察官、警察官その他の省庁出身者や銀行員、弁護士などの民間出身者と共に仕事をした。このころは銀行の融資が不良債権化して、経営が立ち行かなくなる銀行が出て来るなど社会問題化した時期で、債務者の財産調査を行って債権回収することを目的として、私が出向する前の年に特別業務部(通称『特業部』)が創設されたのである。特業部の職員には、財産調査権限証及び取立権限証が交付され、財産調査、質問、債権取立を行う権限が与えられた。民間人であった銀行出身者も財産調査権限に基づいて債務者や他の銀行で財産調査を行ったのである。中には、調査権限を与えられたことがうれしかったのか、調査権限を積極的に行使した者がいたのを今でも覚えている。間もなく貸し手責任の追及のために特業部に機動調査課が創設され、私は創設メンバーの一人になった。この機動調査課は、検察官、警察官、国税査察官、国税徴収官で構成された。破綻銀行が情実融資(個人的な関係に基づいて行われる融資)や迂回融資(融資額が信用供与の限度額内であるように見せかけるために、ノンバンクなどの第三者を経由させる間接的な融資)や浮き貸し(地位を利用して自己又は第三者の利益を図るために行う融資)を行わなかったかどうかなどの調査を行ったのである。いくつかの破綻銀行に、それぞれ何か月も通い詰めたことが記憶に残っている。
当時の松田昇理事長から、『おごらず 気負わず そしてひるまず』という言葉と共に『衆知を集めてプラスワン』という言葉を頂いた。以後、その言葉を実践して来たのである。
当時の上司が、その後「最高裁判事」「警視庁副総監」「警視庁捜査一課長」などに就任している。すごい人達と仕事をしていたんだなと、今でも誇りに思っている。
預保では、預保の関連組織である株式会社整理回収機構の初代社長を務めた中坊公平(故人)弁護士と場をともにする機会も持てた。また、國松孝次元警察庁長官が出席した預保主催の座談会がテレビ中継されたのだが、その席の傍らで書記をしていた私がほんの一瞬テレビに映ったことがあったのだ。
預保には、とても素晴らしい経験をさせてもらったと思っている。
預保から国税に戻った時のポストは、査察の主査(税務署の統括官クラス)だった。この時はトップクラスだった。私に初めて部下ができたのである。
主査になるのが早かったからか、主査を5年務めた。その後、アナログ人間である私がなぜかコンピューターを操る情報技術専門官になったのである。これは適材適所だったのだろうか。
料調と査察の総括主査の経験は良かった。直接調査事案を持てなかったが、私は口だけでなく現場に出張るなど体も出したので、担当者を通して納税者と対峙している感覚があった。料調の時であったが、それぞれの調査事案の担当者から毎日私に復命の電話が入るのであるが、私は自分の調査事案のように口を出したので、一つ一つの復命の時間が長くなり、復命渋滞が起こったのである。今でも、当時の部下と酒を飲む機会があると、うらみ節を聞くことになるのである。
だが、査察でさえも実績ではなく人柄が、正義より組織が優先されているのではないかと思うようになった。私は、処理件数より内容にこだわった。事件着手前の見込脱漏所得を上回る脱漏所得を何度も把握した。検察庁との合同捜査にも何度かつなげた。でも、処理が遅いとうとんじられた。
私は査察に残れずに、署の特官になった。18年振りの税務署である。私は上席(上席国税調査官)と統括官を経験せずに特官になってしまったのである。
特別国税徴収官時代は、テレビドラマ化された『トッカン(特官)』として、滞納者の財産調査や差押えの事務などに従事した。この時に、令状無しに捜索、差押を行う経験をした。特官には、徴収経験が豊富な上席国税徴収官が「特官付」として付いたのでコンビを組んだのだが、私は徴収事務が初めてだったので、「どっちが付なのか分からないな」という恥ずかしい有様だった。
私が次に希望したのは査察であったが、ある人から言われたのは「お前はおっぱなされたんだから、もう戻れないんだよ」だった。私の最終目標は査察の統括官(統括国税査察官)になることだったが、叶わなかったのである。
特別国税調査官時代も、『トッカン(特官)』として、資料調査課ほどではないが、大口・悪質、調査困難事案の税務調査を担当した。ここでも間違いなく実績を上げたが、その反動でトラブルメーカーになってしまった。どういうことなのかを話すと長くなるので、後で詳しく話をしたい。
私は、これまで一貫して調査担当を希望して来た。調査以外の仕事に興味はなかった。調査か出世かの二者択一だったら出世を選んだかも知れないが、調査でも実績を上げれば出世は付いて来るものだと思っていたのだ。
特官はベテランとして後輩の指導・育成にも尽力すべき立場であったが、私には組織から直接的な依頼は何もなかった。でも、税務調査のノウハウを後輩達に伝承しなければならないという使命感があったので、研修や打ち合わせの場で少しずつ時間を貰って自主的に研修を行った。私は税務調査のセカンドオピニオンを公言していたのだが、相談に来る者は殆んどいなかった。「皆、今の自分に満足しているのだろうか」「しっかりと向き合っているのだろうか」などと、よく不安やら心配になったものである。でも、「私個人の力には限界があるから」などと自分を納得させてしまったのである。
退職のセレモニーの時に、私は不覚にも皆の前で涙を流してしまった。色々な思いが込み上げたのだが、この涙はうれし涙だった。私は涙もろいのだった。
私は最後まで指定特官(署長・副署長クラス)にはなれなかった。出世はできなかったが、代わりに40年の調査経験ができた。負け惜しみだが、調査だけで生きて来られた。税務調査を極めることができた。その真偽は、この先を読んで評価してもらいたい。
退職後は再任用の制度を利用して、引き続き調査事務に従事して若手の指導・育成に貢献したいと思っていた。だが、組織が私に信頼も敬意も無いことが分かったので、希望を取り下げてしまったのだ。
無職になると、暇なせいか毎日のように昔のことが思い出される。思い出すのは税務調査のことばかり。すると、「40年の調査経験を無駄にしない方法はないものか」「何とか生かせないものか」などと考えるようになった。「そうだ、思いを書き残そう」それが私に与えられた使命ではないかという思いに至ったのである。
話は長くなってしまったが、私の人となりは理解してもらえたのではないだろうか。
<続く> 次回は、「3 税務調査とは」になります。