機械化による機会の喪失 ~作家売買~

画面を見て、
画面に話しかけ、
画面に声を伝えて、
画面ボタンを押す。


目の前の人間と話すことよりも、目の前の画面を見て、操作することだけに重きをおいてしまう危うさ。


人が意思疎通する為に、生み出された道具の使い方のお話です。



以前、レジで「ありがとう」って返事をする意味 ~バーちゃんの戯れ言~

って、書いたんですけど、書くと少し頭が整理されるので、次のお題目が出てきます。


レジで「ありがとう」って返事をする意味を考えていたら、逆に「どうして、目の前に人がいて『ありがとう』など声掛けをされているのに、返事をしなくていいと思ったのか?


って疑問も出てきました。

それは、やっぱり『機械化』が一番の要因だと思うんです。

若ければ、若い程、何をするにも「機械がやる」ってのが当たり前の生活が増えています。

買い物も、ポチっとすれば自宅に配達され、配達ボックスを設置すれば、誰にも会わずに買い物は完了する。



意思疎通(コミュニケーション)の方法は、ほんの十数年前までは「人同士が話す」ってのがメインの方法で、サブ的にメールやネットを使っていたんです。

せめて、電話で声を聴くってのが当たり前の世界だった気がします。まあ、私個人の昔のことを思い出しての感想ですけど。


それが今は、コミュニケーション方法の大部分を、実際に会って対応するよりも「画面を見ること」が主流になっていると感じます。

メールなどの特定の人とのやり取りもありますけど、SNSっていう不特定多数の方たちとの、短文テキストと画像(絵・写真)だけでの意思疎通の完了してしまう状態もドンドンと増えている。


で、結局はそれらは全て

画面を見て、

画面に話しかけ、

画面に声をつたらわせて、

画面ボタンを押す

ってことで、終わってしまう。


目の前に、同じ『人間』がいるって経験が少ないんだな~って


だから、目の前に人がいて、マニュアル通りの接客だろうと「ありがとう」など声がけされているのに、返事をしなくていいっていう1つの回答をだしてしまったんだなって感じました。


ヤング層だけに限らず、大人だろうと、中年だろうと、老齢の方だろうと、誰だろうと陥る罠?でしょうか。


一先ず、『人』がいて世界があるんだしさ。

『人』の為の道具として、ネットやSNSが開発されたんだろうし(まあ、儲ける為でもあるけど、儲けるってのは生きていく手段の一つですので否定するもんでもありませんかね。)


一先ずの一先ず、画面だけの世界から、早くこの現実世界で一緒にお茶でも飲もうって、画面の世界にいる人に伝えたいなと思った、中年の昔話でした。


今日も、誰かに笑われていますように。