勉強することは偉いことではなくて、当たり前のkoto。 ~作家売買~
「勉強して、偉いね。」
って、言葉を中年の私も言われて困っています。
中年だけど、大学に行っていると結構な老若男女の第一声は「偉いね」って言葉でした。
けど「偉い」って言われると、困るんです。
勉強することは偉いって思ってないんですよ。
なんて返していいのか、わからない。
誰かと挨拶をしたら「偉いね」って言われたら返事に困りませんか?
「当たり前のことをしてるだけなのに。」って。
挨拶を交わすのと同じぐらい、当たり前のこととして勉強をしているだけだから返事に困ります。
小さいお子さんの精神面の発達過程で、肯定感を与える為の表現として「偉いね」ってのはわかるけど、今流行りの「SNS上での疑似肯定感」のような時間の浪費言葉は不要です。
勉強することは生きていくのに必要だから、必死でやっている行為の一つに過ぎないんですよ。
生きていくの必要だから、必死に稼ぐために仕事をしたり。
生きていくの必要だから、必死に効率よく仕事をこなせるように試行錯誤したり。
生きていくの必要だから、笑いある生活をするには何をどう行動すればいいのか必死に考える。
生きていくのってたくさんの要素が必要だな~って個人的には思います。
昔は金さえありゃ生きてけるって思ったのに、今度は愛がほしいと思ったし、安心が欲しいと感じたし、時にちょっと辛酸舐めつつもラストはハッピーエンドなドキドキがしたいとか。
たくさんの要素だか、希望だか、欲望なのか、判別がつかない程、多くのモノが生存には必要なんだなと感じたんですよ。
学べるって状況は、当たり前のことではありません。
学べる環境にいる選ばれた人なんです。トクベツなヒトなんです。
「あなた達は選ばれた人なんですよ!」
って、どこかで出会った素敵なセンセイって呼ばれる職業の方が仰っていて、とても納得しました。
それだけ、自分に時間とお金を投資してもらえた人であるんです。
生きるか死ぬかの死線は見なくてすんでいるし、明日の飯が食えるかどうか?を考えなくて済む生活を持っているってことですから。
私は自分で自分に投資して学校に行っています。
学校で得た知識を使って、商売してって、生きやすくする為に。
たまに私たちが勝手にカテゴライズした「貧困」状態の方たちを社会問題としてニュースになります。
その時に、その人たちの子供さんたちは必ずと言っていい程、
「勉強がしたい」
って、言葉を言っていて、それが流されます。
(記事作成者や動画編集者の何かしらの意図はあるかもしれませんが、そこはおいておきます。)
貧困なら「貧しくて困っている」ってことなら、お金をあげて豊かにさせればいいのでは?
「お金がほしい」って言葉を発信すれば良いのでは?
少し戸惑いやたじろぎ、葛藤もあるかもしれないけど、でも、背に腹は代えられないのなら、1つの解決策として、こうゆう考えもあるのではないでしょうか?
なのに、どうして「貧困なのに、お金が欲しいという言葉より、勉強がしたいという言葉を発信してるのか?」って考えたことありますか?
貧しくても、勉強がしたいという子供心理、それはその子が勝手に他者から貧困とカテゴライズされた憐れみの中での生活をしていても
学ぶことは「生きていくのに必要だから」
って、自分で体感して理解してるからなのかと私は思いました。
例えば、超テキトーな1例をあげます。
この『貧困』という言葉をまた使わせてもらい、お金がないことを貧困だと定義したとして、
ある1人の貧困状況の方に対して1億円をあげたとします。
貯金1億円です。税金も何もかかりません。自分のお金として1億円は好きなように使えます。つまり「お金持ち」って部類に入りますよね?
それで、その一人の人は生涯「貧困」ではなくなりますか?
なんの知識もなく、その1億円を元に商売を始めて、商売に失敗して破産をしないと言い切れますか?
商売を始めずに、なんの知識もなく1億円だけで生活をしていこうと日々、生活費の事だけを考えているだけの生涯を送ったとして、それは幸せなんでしょうか?
お金も生きていくのには大切です。
でも、それは道具でしかありません。道具も必要ですが、道具があるだけでは生きていけない。
けど、お金という道具だけあっても
使い方を知らなければ意味がありません。
道具(お金)の使い方がわかれば、多少、道具が減ったとしたとしても、また、ある一定まで増やせる可能性が残ります。
人が学びたい。勉強したい。ってのは、よくよく考えれば
「生きたい」って言っているようにも聞こえます。
この国では、当たり前のことが
よその国では、とても尊いことだったり。
逆に、尊いことが、他所では当たり前だったり。
当たり前なんでしょうか。
今日も、誰かに笑われていますように。