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【帝都怪奇浪漫画報】7話更新のお知らせ

明治時代文豪×オカルトのオリジナルノベルシリーズ『帝都怪奇浪漫画報』の本編第7話を更新しました。今回の話で第一部である「死告げ鳥のグリンプス篇」が終了です。

>>NOVEL DAYS 『帝都怪奇浪漫画報』

>>カクヨム『帝都怪奇浪漫画報』

>>Pixiv文芸『帝都怪奇浪漫画報』シリーズ一覧

例の如く、どれも更新内容は同じです。お好きなところでお読みください。

ブクマ、応援コメントなどありがとうございます!

NOVEL DAYSの方は、登場人物紹介ページに人気投票的なのがついているので、お好きなキャラに投票してくださればキャラ人気の参考にいたします~。(今後キャラグッズを作る際や、イベントや通販特典&特設サイト掲載SS登場キャラなどに反映する予定です)

『死告げ鳥のグリンプス篇』+書下ろしSSを収録した『帝都怪奇浪漫画報』1巻は、11月24日の文学フリマ東京及びCOMITIAにて頒布予定でございます。SSが読めるノベルティ付きポストカードもつきますよ!

※イベント頒布ノベルティのポストカード特典SSは、一定期間経過後に特設サイトに掲載しますので同人誌版には収録されません。

1月の文学フリマ京都にも持ち込み予定ですので、よろしくお願いします。

最新情報は特設サイトを確認してくださいね!

>>「帝都怪奇浪漫画報」特設サイト

イラスト担当の紅月美邑さんへのお問い合わせは、以下からお願いいたします。

【紅月美邑様ご依頼先】note
twitter:@nnjmmr_info
サイト :http://70nnj.rash.jp/nnjmmr/
連絡先 :70nnj.mmr★gmail.com(★→@)


ここからは恒例の史実語りです。

例の如く、史実関連のはあくまでこういった情報を元にフィクションをアレンジしました!というお話なので、これが史実として正確です!というお話ではありませんのでご注意を。

まぁ、文学史に限らず、手紙1枚が見つかって覆る史実なんてたくさんありますので、最新の研究結果については論文など色々調べるのが適切かと……独歩関連は、戦災で手紙などが消失してしまっており、残っていないものも多いそうですが……(花袋先生がやたら独歩のことを書き残している&細やかに手紙をとっておいている方なので、花袋記念館にいった方がわかるみたいなところがあるのがまた……)

第一部の最後に名前だけ出てきた有島武郎さん。

彼は独歩、花袋、藤村などの自然主義文学の後に、反自然主義的な作風で活躍した白樺派の作家であります。反自然主義といっても、自然主義にケンカを売りまくっていたわけではなく(むしろ自然主義作家の中でも岩野泡鳴氏が有島武郎氏にやたらケンカを売ってる)あくまで自然主義文学とは違った流れを目指した文学の派閥です。

白樺派の中心であった武者小路実篤が国木田独歩のファンであり、南湖院で結核の療養をしていた独歩に、自分の著作を送ったなどというエピソードがあります。(※面識はない)

武者小路実篤の影響か、それとも有島武郎が他の白樺派に広めたのかはわかりませんが、有島武郎は独歩に色々と思うところがあったようです。

有島武郎は独歩と信子、そして信子が生涯添い遂げることになる武井勘三郎との恋愛事件をモデルにした小説『或る女のグリンプス』を発表します。これは書籍では『或る女』と改題され、今日にいたるまで彼の代表作のひとつです。

有島武郎と独歩には、奇妙な繋がりがあります。

独歩と別れた後、信子が渡米して婚約するはずだった相手は、有島武郎の友人でした。

また、独歩が恋に破れた『信子』でありますが、有島武郎も若い頃に『信子』という名前の女性との恋に破れています。何かシンパシーを感じたのかもしれません。

独歩は北海道で農園を営むことを夢見ていました。皮肉にも、有島武郎は北海道に農地を持っておりました。ニセコには、彼が無償で農民に土地を移譲したことから『有島』という地名になった土地があります。その土地に、有島武郎記念館がたっています。

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これは有島武郎記念館にいった時の写真。有島武郎の銅像がお庭でお迎えしてくれます。

画像2

羊蹄山が間近にみられる綺麗な場所ですよ~。それだけ田舎にあるということなので、ちょっとした旅行のついでに行くにはややハードルの高い場所なんですが。何せ農地なので……。

ちなみに、『或る女のグリンプス』が発表された時、信子さんが有島武郎に抗議したという記述がされている場合がありますが、これは厳密には間違いで、有島先生に抗議をおこなったのは妹の愛子の方です。

信子さんはその頃には独歩絡みでああだこうだ言われるのに慣れ切っており、しかも独歩との間に浦子という女の子を設けていたこともバレてしまっていたので、「今更何も申し開きはしません」と堂々としていたそうな。これは前にも書きましたね?

愛子さんの訴えを受けて、話し合いの場を設けることになりましたが、その日が来る前に有島武郎は軽井沢で心中してしまい、実現しておりません。

ちなみに、独歩さんはこの『或る女』事件の頃には、すでに他界していたわけですが、有島武郎は藤村とは面識があり、『或る女』のモデルは自分自身だ、という発言をなさったそうで。信子の境遇(名家に生まれ、思い通りに恋愛することさえ許されぬ立場)に感じいるところがあったのかもしれません。自分の境遇をはねのけて、想い人と添い遂げる勇気にも憧れたのかもしれません。

しかし、『或る女』は現実の信子とは違い、悲劇です。有島武郎の人生観が反映されているのでしょうか?

余談ですが、藤村は有島武郎の弟である有島生馬と交友を持ち、日本ペンクラブの会長と副会長の関係になったことも。明治の文壇は広いようで狭い。どこで誰と繋がっているかわからないものですねぇ。

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