サイババ体験談②
この時のツアーは飛行機をチャーターしてのもので、大人数が参加していました。
成田空港で飛行機に乗り込む時間になっても私は甘栗をイスに座って食べていて、
全て食べ終わってから行ったので、私と母は最後の乗客でした。
最後に行ったわたしたちは搭乗口でなぜか花輪のようなものを首にかけられて、関係者と記念撮影をされた記憶があります。
チャーター機ですから、飛行機の中での映画上映もサイババに関するものでした。
直接バンガロールの空港に着き、確か市内のホテルで一泊し、
翌日バスでそこからサイババのアシュラムのあるプッタパルティに向かったと思います。
ホテルからプッタパルティへ向かうバスの中ではみんなで日本語のバジャン(濃厚)を歌っていました。
私はもちろんそれらを耳にするのは初めてで、「えらいところに来てしまったなあ」と思わなくもありませんでした。
前に立つ係の人が「誰かリードしたい方」と呼びかけると、隣の席に座っていた母が「はい!」と真っすぐ手を挙げ、信仰心を鼓舞する日本語バジャンを立って力いっぱい歌い出したので、
ああ、私が学生寮で暮らしている間に、実家では私のうかがい知れないことが起こっていたのだ。。。。。
と、唖然としました。
まあしかし、歌を歌うのは嫌いではないので、適当に合わせて私も歌い、濃厚な歌詞をあえて力いっぱい歌うことには、倒錯したある種の快感を覚えないこともなかったです。
何を見てもめずらしく、刺激的な異国の風景の中をバスは数時間走り、プッタパルティに到着しました。
アシュラムでは大部屋に13人がマットを並べて敷き、寝泊まりしました。
これを書いている2009年現在では、ダルシャン(ババの登場)は朝夕のバジャンの少し前や、バジャンが始まってから、というパターンが多くなっていてダルシャンとバジャンがほとんど一体化していますが、
1995年の時点ではダルシャンの時間は今よりもずっと早く、ダルシャンが終わってからバジャンが始まるまではさらに1~2時間くらいいつも間隔があいていました。
(その間に休憩しに行く人もいましたが、わたしはその間も律儀にずっと座り続けていました)
ですから、1995年の時点では朝早くからみんなで並んでトークン(席順を決めるくじ引き)に行き、午後も昼過ぎには炎天下の中、すぐにダルシャンのための列に並びに行った記憶があります。
自由に行動できる時間はほとんどなく、ダルシャンやバジャンのために座っている時間がとても長く、いつも睡眠不足で眠かったです。そして初めてのインドの日差しはとてもきつかったです。
その時のツアーの全体の日程は11日間で、実際にプッタパルティに滞在したのは9日間くらいだったのではないかと思います。
めずらしい事ばかりだったので楽しく滞在しました。
周りの人達がババのことを神として信仰していたので、私も「そうなんだー?」と、特に疑問も持たず、ダルシャンの時は他の人達に倣って、なるべくババから目を離さないように、真面目に集中して拝んでいました。
実際、ダルシャンの時の周囲の雰囲気とババの存在感は圧倒的で、とてつもなさを感じさせるものでした。
なのでせっかくだからと、このダルシャンの機会に集中し、何も逃さないようにしたいという気持ちに自然となりました。
しかし当時の私は悩みもなく若くて空っぽでしたし、自ら望んでこのツアーに参加した母にくっついて来ただけだったので、基本的に初インド体験を楽しんで気楽にしていました。
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