サイババ体験談⑩
次に目が覚めて気がついたとき、機内はうっすらと明るくなっていました。
夜明けでした。
そして意識を取り戻すと同時に、私は自分のすべての感覚の日常感覚に戻っていることに気がつきました。
それこそまったく信じられない、奇跡が起こったとしか私には思えませんでした。
私の周囲のあらゆるものが、私とは別個のものとしてそれぞれのいとおしい独自の存在感を取り戻していました。
わたしはもう絶望的な孤独の中にはいませんでした。
多くの、私とは別のものに囲まれていました。
私はうれしくてうれしくて、感動で胸がふるえていました。
わたしはこの美しい世界にまた戻ってくることができた。。。。。
そう思いました。
あの、前夜の圧倒的で絶対的な体験の中にあっては、この世界に個人として戻ってくることなど不可能のようで、想像できることではありませんでした。
私はうれしさのあまり、目にするもの(いすや、窓など、座席から見えるいろいろなものもの)すべてに心の中で話しかけて交流しました。
席を立ち、まだほとんどの人がそれぞれの座席で眠っている機内の通路をゆっくり、自分に再び与えられた個人性の感覚を確かめるように、そうっと、歩いてみました。
まだ少し、全身にはじけるような、しびれた感覚は残るものの、私は私として存在し、周囲のものは周囲のものとして存在していました。
それは完全な祝福の中で至上の歓喜とともに行われるにぎやかな祝祭のように、あまりにもすばらしい経験でした。
私はうれしくてうれしくてたまりませんでした。
もうわたしは一人ぼっちじゃないと思えました。
昨晩の、すべてが自分であり、自分しか存在しないという体験はわたしにとってあまりにも絶望的で逃げ場がなく、どうすることもできない、ただ甘んじて受けるほかない強い哀しみを伴っていました。
たとえ自分が、「ああ、そうだった、本当はこれが真実なんだった」とあきらかに気づいていたとしても、
たとえそれが、ゆるぎない至福のうちにあるものであったとしても、
それはどうしようもなく、たまらなく寂しいものでした。
絶望とはこのことでした。
一方、この、「周囲の事物と私が別個に存在している」という幻想(確かにそれは幻想ですが)はあまりにも甘美で、
私はこの世界に戻されたとき、自分が再びさまざまな自分とは別個のものに取り囲まれていると感じたとき、
ふるえ、めまいがするほどの喜びを全身に感じました。
美しい、美しい、あまりにも美しいこの世界。
これこそが奇跡でした。
私はこの世界に戻ってくることができて、本当に、本当に、うれしかったのです。
うれしくてうれしくて、こんなことがおこるなんて、まるで夢のようだと思いました。
実際これらが夢のような虚の世界であるということを体感し、思い知らされたにもかかわらず、
わたしはこのさまざまな形と、色彩と、名前のあふれるめくるめく夢の遊園地にこのように100パーセントの歓喜を持って再入園しました。
そのとき、まだ寝静まっている薄暗いジャンボジェットの機内の化粧室の横の窓から見た明るく清潔な生まれたての空の色や、
白くて軽い雲のささやかな重みの感覚をひとり静かに味わっていたあの心境は、
同じ感慨とともに今でも思い出すことができます。
しばらくして人々が目を覚まし始めたころ、機内食が配られました。
私の2つ隣の席の、錯乱した女の人はじっと私を見ました。
まだなにか私たちの間には何らかのつながりがあるようでした。
先に彼女の方の通路側から機内食が配られ、彼女の前にトレーが置かれたとき、
彼女は、
「あなた、これを食べなさい」
と言って、自分の機内食を私のほうによこしました。
すぐにこちらにも配られるので必要なかったのですが、
私は「ありがとうございます」と受け取り、あとで自分に配られた機内食を代わりに彼女に渡しました。
そのときに飲んだ水は甘露そのものの命の水という感じで、ふるえがくるほどでした。
体に滑り落ちるように軽やかに吸収されて、あっというまに昇華されました。
その水は、私がこの世界に戻ってきて始めて口にしたものでした。
死に水というのがありますが、これはまるで私にとっては生き水でした。
その水を飲んだことを皮切りに、私はこの世界とどんどんつながり直しました。
そのほかのフルーツやパンなんかも、全神経を集中させて、驚きとともにそのすばらしさを味わいました。
まったく、この世界に戻ってきた私は、生まれたての赤ん坊のようでした。
世界はすべてが新鮮な驚きに満ちていて、すみずみまで光り輝いていました。
少し離れた席に座っていた母に、ツアーの責任者なような人が
「あなたには愛がある」と言ってほめていて、
母は
「いやー、なに言ってんのもうっ!」
みたいに喜んで、その人の丸いおなかをバシンと叩いたので
その人はそれ以上何も言わずどこかに行った様子が見えました。
昨夜、脳が千切れ飛びそうなくらいのギリギリ極限の重苦しい思索の状況があったことがうそか冗談かであるかのように、飛行機は平和に成田空港に到着しました。
飛行機の着陸と同時にほっとした緩んだ空気が流れ、みんなはあわただしく、しかしいそいそと飛行機から降りてゆきました。
昨夜の圧倒的なリアリティが消えうせ、それ以前にあったような普通の存在形態で普通に日本の地に再び降り立てたことが私にはまだにわかには信じられませんでした。
それはいまだに奇跡的なことに思え、
夢じゃないかというような、信じがたい気持ちがつづいていました。。
空港のトイレに入ると、機内でわたしの2つ隣の席に座らされていた錯乱していた女性が洗面台の鏡に前にいました。
彼女は、
「サンダルをなくしてしまったんです」とか
「何も覚えていないんです」などと、
夢からさめた人の呆然として魂が抜けてしまったような口調で話しかけてきました。
この分だと、機内でののしり、呪詛めいた言葉を吐き、私に
「この本を読みなさい」と、預言者のような態度で薦めてきた、ある意味パワフルだったあの状態のことも覚えていなさそうでした。
成田から大阪に新幹線で戻りました。
ツアー中に時々接していた気功師が大阪駅で新幹線を降りたあと、別れ際に握手を求めてきました。
確かにそのときの私の気の流れは最高だったと思います。
一緒にいた母は、自分には握手を求めなかったとぶつくさ言っていました。
超絶状態から通常の状態に戻ってくると、それまでの下痢や高熱はすっかり治っていました。
そのようにして、私の初めてのインド旅行は幕を閉じました。
いったん母とともに兵庫の実家に戻ったので、私は精神病の母にほかの家族がどう対応するのか、多少緊張して見ていました。
しかし、実家では母はインドにいたときほどむちゃくちゃではありませんでした。
やはり、インドで過酷な気象条件の中、ハードスケジュールをこなしつつダルシャンを受けるという特殊な状況が、母を普段の10倍くらいエキセントリックにしていたようでした。
なので、まずはほっとしました。
そうして私は日本の日常の中に戻り、学生寮に帰ってコンビニや寿司屋などのアルバイトにも行き、大学生としての気楽な生活を再開しました。
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