「なりわい暮らし」という生きかた
「なりわい」ということば
なりわい、という言葉がさかんに言われたのは、東日本大震災後の復興のころだったと思う。震災復興というとハード面の建て直しが急がれるけれど、同時にそこで暮らしを営んでいた人々の生活、暮らし、いとなみーー「なりわい」を取り戻そう、と。
「なりわい」……ずいぶん古式ゆかしい言葉が出てきたなあと思ったけれど、この言葉はきらいではない。「働く場所」とか「雇用創出」とか「賃金を稼ぐ」といった、資本主義的、現代的世界観とは違う、どこか地に足のついた、暮らしの実感と温かみがある。
最近、「なりわい暮らし」というコンセプトで地域おこしをする動きがあることを知った。ツバナというプロジェクトでは、茅ケ崎市の住宅街の一角を再開発し、長屋風に店舗付き住宅(住宅付き店舗)を連ねた一角をつくっている。暮らしながら思い思いの好きな商売していいのだという。これはなかなかよさげだいいなあ、と思った。
飲食店をはじめとして、個人店の経営は難しいとよく聞く。新規出店する店舗の何割が数年以内に撤退している、といった数字がよく話題にのぼる。テナントを借りて、商品を売り、売上から、原価を引き、月々のテナント代や従業員やアルバイトがいれば報酬を支払い、借入があれば返済をし、残った利益で生活する……という、かなりの大ワザをこなさないといけない。月々の売上には波があるものだし、内部留保が少なかったら、少々つまずくと、すぐに徹底を余儀なくされる……ということは想像に難くない。
そんななかで、「ずいぶん商売っ気ないなあ、どうやって回しているんだろう」というような個人経営の小さななカフェや居酒屋が地道に続いていたりする。そいう場合、多くは物件を持っている人がオーナー(店舗付き住宅)だったり、家族経営だったりする。
高齢化社会、「現役」「老後」を、きれいに「定年」という線で分けられない時代。老いやら人生の荷物やらに向き合いつつ、暮らしとなりわいをゆるゆると長く続けていく。自分のスペースで、自分のペースで。そんなことを最近はよく考える。若いころの自分が聞いたら、「後ろ向き」と思うだろうか。
「成果を出す」「大きなことを成し遂げる」という、若々しい情熱はいいものだけれど、必ずしもサステナブルではないので、ある時期からは人生「長く楽しむ」「長く味わう」ということに重きを置いて想定するのがいいように思う。
甘くなくても、苦くても、酸っぱくても、人生の味わい
理想のひとつは、ドラマ「パンとスープとネコ日和」のようなイメージだな。自分の家なら、「客数」「客単価」「滞在時間」といったロジックからはなれて、家に来たお客さんのようにおもてなしできそう。
飲食店に限らない。庭や小さな畑作地で作物を育てながら、時々釣りをして、半分くらい自給自足というのもいい。いくつかの手に職を組み合わせたり、必要なものは栽培したり、手作りしたり。そんなのはどうだろう。
居心地の良い空間を作って、暮らしながら、お客さんを招いたり、好きなことをして、ちょこちょこと稼いで生活する。そんな暮らしができぬものか。
世の中そんなに甘くないー!と怒られそうだけど、自分の人生なのだから、うんと甘くたって、好きなようにしたって、楽しいことで埋め尽くしたって、いいんじゃないかしら。実際甘くなくて、酸っぱいなあ、苦いなあ、と思っても、それはそれで人生の味わいというもの。
ただ、ちょっと思う。先のプロジェクトは、とてもいいコンセプトだと思うけれど、やっぱり誰かが作った物語に乗っかるのは、ちょっとつまらないかな。会社勤めは、「会社」という物語の登場人物となって生きるということで、そのなかで大きな夢を見ることができて、いいこともたくさんあるけれど、やはり誰かが作った物語。長年の会社人生を終えて、新しい人生を作ろうというときに、またぞろ別の誰かが作った物語に組み込まれるのはなあ。その物語の作法に従わなくてはならなかったり、求められている役割を演じたり、ということが必要になるだろう。それもきゅうくつかも。どうせなら、勝手気ままに生きたい。わがままかしら。
これからのことを妄想するのはとっても楽しい。