「恋愛」音川太一の家族と恋について②「小説」
「喫茶店の新マスター候補について」
目を覚ましたら自室だった。
夢を見ていたのか……映画館で、女の人が泣いているのを見たような、そんな夢を。
いやいやそんなことはない。俺は昨日の格好のままだったし、寝ぼけた頭がさえていくのにつれて、記憶が蘇っていく。そうだ、俺はあの時、寝てしまって、起きたのはスタッフロールの終わり際だった。
彼女の姿はすでになく、ハンカチも持って行かれたようだ。
俺はそれについて、寝ぼけていて特に思うことがなく、ただあの時の、一瞬の接触が夢のように思い出された。
そういえば一瞬触れた手が、すごく柔らかかったような。女性って男の体と全然違うなと、当たり前のことなのに、しみじみと感じ入ってしまった。何の痕跡なんてないのに、思わず自分の手を嗅いでしまう。
女性の感覚を必死に思い出そうとする自分がいた。
しかしそんな気持ちの良い記憶にまどろむのを妨害するように声が聞こえる。
「なんだ、太一はまだ起きてないのか」
「昨日、遅くまで起きていたみたいで……まだ寝ているのかも」
「まったく、朝ぐらいは一緒に飯を食べればいいのに」
「まぁ、気分がのったら食べてくれますよ。ねぇ、桜」
「マンマ、ちょうだいー」
桜はまだ二歳だ。母親の言っていることが理解しきれないのだろう。ご飯をせがんでいる。
父親と母親は三年前に結婚した。父親は再婚だった。今の母親と父親の間に生まれたのが、桜だ。
三人はよく一緒に行動している。朝ご飯も少し遅めな出勤の父親に合わせて一緒にご飯を食べている。
晴美と父親は、俺も一緒に食事をとるように言うが、できるだけ俺は避けていた。
何故なら俺が余計なもののように感じているからだ。
父親がいて、晴美がいて、桜がいて、完全無欠な一家団欒に感じる。
俺がいて、果たしていいのだろうか。自分は邪魔じゃないのか。
疑心暗鬼が消えない俺にとって、三人が仲よさそうにしているときが一番いたたまれなくなる。
俺は周りから聞こえる声を遮るように、厚めの毛布を、勢いよくかぶった。
今日は通っている大学で講義がない。だがしかしバイトはある。
映画館のある商店街にある、古い喫茶店だ。給料は安いが、客はなじみな人が多いので、バイトとしては気楽だった。
しかし、今日のバイト先の空気はひと味違った。
「よぉ。来たか。音川」
その声は異様に上機嫌だ。
俺は頭に疑問を覚えながらも、やたらめったら背中を叩いてくるマスターに言った。
「どうしたんですか、そんな、いたた、機嫌が良くて」
「いやな、いいことがあったんだよ。うはははは」
仕事上の上司の機嫌がいいことは、けして悪いことではないが、それにしてもあまりにも有頂天だ。
逆に不安になってくる。頭を傾げながら喫茶店の制服に袖を通していると、バイト仲間で同じ大学に通う吉水が声をかけてきた。
「うっすー、たいちー」
「眠そうな声だなぁ……」
「だって夜勤の後にここだもん。眠気も来るさー」
吉水はゆるゆると応える。
腕を見ると、古くさい革の腕時計を、大切そうにつけていた。
少しみっともないほどに、ぼろっとしているのだが、吉水はそれだけは外さなかった。
先に入っていた吉水に、俺はマスターのいる方へ目をやりながら言った。
「今日のマスター、おかしくない?」
「え、ああ……何か新しい人が来るらしいよ。それで上機嫌なのかも」
「へぇ……この店に、これ以上の従業員を雇う余裕あったんだ」
「あー、泣くよー。マスター、繊細だからぁ」
「あんなおっさんが泣いてどうするんだよ! まぁ、傷ついて、露骨にしょんぼりする癖はやめて欲しいな、うん……」
鼻の下にひげをはやし、四十代の実年齢相応の落ち着きを感じさせる風貌だが、とてもマスターは客商売に向いていない。変に感受性が豊かなもんだから、ちょっとのことで肩を落としたり、逆に異常に喜んでしまったりしてしまう。接客はわりと常に平静だったり冷静だったりしないと、お客に対応できないだろうに。
今の店もマスターの先代から引き継いだものをやっているらしい。不動産でも収入を得ているらしいマスターがこの店を続ける意義はそんなにないのだが、おそらく親に言いつけられたから続けているというのが関の山ではないだろうか。
「おーい。二人とも、紹介したい人がいるんだ。来てくれー」
「さっそくか」
マスターの言葉に反応し、俺は首のこりをとるように肩の筋肉を動かしながら歩き出す。
吉水も、あくびを一つこぼしながら、俺の後ろをついて行った。
「今日から、新しい人が入るのだが、その前に話さないといけないことがある」
マスターの前に行くと、新しい従業員の姿は見えなかった。
一瞬戸惑う俺と吉水の前で、マスターは胸を張る。
「なんなんですか、マスター? 新メニュー開発っすか。また」
何故だろう、吉水の顔は、何かを予想したように渋い顔をしている。
それにマスターは悠々と頭を横に振った。
「違う。俺はもう、商品開発が出来ない」
「しないじゃないくて、出来ないんですか?」
普通に店をやっている以上、出来ないはないだろう。
「ああ、この店はもうすぐ閉店する」
その瞬間の雷撃のような衝撃はないだろう。
特に吉水は眠そうな顔から真顔になった。
「え、なんで……そんなに収益、悪かったんですか」
俺は強ばる頬をどうにか動かしながら、聞く。
何故かマスターは余裕のある態度でそれを否定した。
「安心しろ、収益は一応黒字だった。そもそもこの店は、不動産の片手間だったからな」
「じゃあ、なんで……」
吉水は目を白黒させながら聞いてくる。
「だが、ここをやっていると俺に自由がない」
「は?」
吉水の声が冷め切っている。それに気づかないのか、マスターは説明を続けた。
「俺はここの店、まるごとを、これから来る柏木さんに譲ることに決めた。親から引き継いだ店は、俺から柏木さんに引き継ぐことになる。つまり俺の店としては閉店だ」
なんだ、その分かりづらい説明は。
「つまり、この店は潰れないんですよね。俺たちもバイトを続けられますか」
吉水が静かにキレている。
生活収入がほとんど自分で稼いでいるという吉水からすれば、当然だろう。
バイト一つ潰れれば、とんでもないことになる。
「うん、君たちの雇用は大丈夫だ。柏木さんにも続けるように頼んである」
俺と吉水は胸をなで下ろす。その横で、マスターは柏木さーんと呼んでいた。
唐突に聞かされたが、いよいよ次の喫茶店のマスターと会えるようだ。
まったく……なんでこんなに動揺することをぽんと言ってしまうのだろうか。
本当に経営者なのだろうか……。
疑心暗鬼に包まれている俺と吉水の前に一人の女性が現れた。
「こちらがこの店の次期マスターの柏木由香里さんだ」
俺は思わず固まった。
いやいやいや、嘘だろう……
ところが、彼女も俺を見て一瞬目を見開く。
ああ、何だよ。彼女も覚えがあるのか。
まさか、こんなところで会うなんてと思っているのかもしれない。
柏木由香里は、映画館で涙を流していた、彼女だった。
マスターは柏木さんの説明をしていく。
元々、マスターの遠縁で、有名飲食店を何軒も勤めていたらしい。
俺よりも、ずっと接客がうまいはずだ!
マスターは謎の自慢をし始めている。
だがしかし、そんなことはどうでもいい。
俺はあまりの偶然に食い入るように柏木さんを見ていた。
「こんにちは、柏木由香里です。よろしくお願いしますね」
吉水はなんだかいつもと違う、ぼそぼそとした声で。
「よ、よろしくお願いします」と言った。
俺も挨拶をする。
びっくりしたあまり、挙動不審さがにじみ出ていた。
柏木さんは最初は目を見開いていたが、すぐに落ち着きを取り戻し。
何でもないような態度で話す。
何だろうか、自意識過剰なのだろうか、俺は。
マスターは俺を見て不思議そうに言った。
「どうした、音川。柏木さんのことをそんなに見て」
「ああ、彼と私、少し前に偶然会ってるんです」
「あ、そうなのかい」
「え?!」
吉水の態度が怖い。目が強ばっている。
俺が何をしたんだと言いたくなるほど、何か言いたげだ。
「そうですね、この間、ちょっと……」
俺はとりあえず場を収拾するべく、曖昧にごまかした。
マスターはそれ以上の追求せず、話はそこで終わる。
俺はほっと、息をついた。
「だけど、あんな美人がいたら教えてくれよー。水くさいってー」
さぁ、仕事を始めようとしたとき、いきなり裏へと引きずり込まれた。
吉水が真剣な顔で俺を見ている。
「いや、そんなこと言われても、また会うなんて思わないじゃん」
「はー、俺、こっちのバイト頑張るわ」
「安直だな!」
「だって、美人だし、胸も大きいじゃん……」
俺もだが、どいつこいつも、見るところは同じなようだ。