私は食べたい(小説)①「私と君と」
作画担当の目は、死んだ魚のように潤いもなく、疲れた表情を浮かべていた。これは別に特段変わったことではない。彼女はイラストや漫画を書くときは、無心に、そう、それこそ取り憑かれている。
けれどもそれ以外は、接客業の仕事の時はさすがに違うらしいが、彼女の瞳は灰色の砂漠を想起させるような瞳だった。
彼女の家に訪れる。私と彼女の家は近くにあり、元々友人で交流も深かった。彼女も私も分野は違うが創作をしており、やがて合作するようになった。
彼女は漫画家になりたいらしいが、話を作るのを苦手にしていたらしく、私を頼ってきたというわけだ。
「またカップラーメンを食べているのか」
インスタントラーメンをすすりながら出迎えてきた彼女に、私は呆れ半分で声をかけた。彼女はこくりと頷き、乾いた声で。
「そう。担々麺の新作が出ていて」
私は夜中に辛いものをよく食べられると思いながら、部屋に上がる。漫画が書くための紙が散らばっている彼女の部屋はあまり綺麗と言えず、ベットの上が唯一、腰をゆっくりとかけることが出来た。
「今日はこの間話した、キャラデザが出来たんだって」
「うん、ヒロインのデザインをちょっと考えていて」
「コミティアもあるし、今日も詰められるところは詰めていこう」
私は鞄から、プロット帳やらノートパソコンを取り出そうとする。すると急に私の胸を鷲掴み、急に彼女が抱きついてきた。
「どうした。また何かあったのか」
いつもというか、この家に来てからは必ず起きる通過儀礼と言うべきか。私が声をかけると、彼女は何も言わずに私を抱きしめた。
抱きしめづらいのではと一瞬思った。
私の格好は女性的とも男性的とも言えないデザイン。胸の所には厚みのある飾りがあり、胸のラインを消している。全体的に黒いシャツで飾り気のないジーンズ。体型がはっきりしないので、短い髪の毛で歩くと、老人だと勘違いしてしまうこともある。男とも女とも主張しない私を、彼女は抱きしめている。
「何にもないけど、ほら、あなたは抱きぐるみみたいなものだから」
「抱き心地は良くないよ」
「あんまり気にしてない」
彼女は情緒不安定だった。泣きそうな顔をしてくるわけでも、いらだちをぶつけてくるわけでもない。ただ抱きしめてくるとき、顔を覗き見ると、表情に虚ろが宿る。柔らかな透明な玉を見ているような気になる。その皮を破ってしまえば、どんな色の、どんな中身が出てくるのか。私はひやりとするのだ。氷を喉に当てられたかのように。
彼女は五分ほどぎゅっと抱きしめていると、深く息を吐き、それからゆっくりと腕を放した。
どちらともなく、さてと言い、作業を始める。私と彼女は、テレビ画面に流れる古いドラマの再放送をBGMに話し合う。それが終わると彼女は鉛筆を滑らせていた。
二時間近く経っただろうか。時計の針は、夜を深く刻み込むような時刻になっていた。さすがに仕事明けで作業しているので、疲れがたまる。
「休むぞ」
私は少し強い声で言った。カリカリと自動人形のように手を動かしていた彼女は、一度私を見て、難しそうな顔で眉をひそめた。
「休むの?」
私は彼女を納得させるために、さも当然のように大きく頷いた。
「休もう」
言い切ると、彼女はしぶしぶと言った様子で、鉛筆を転がすように置いた。
深夜、彼女の家の周りは、張り詰めたように静まりかえる。今日は半月が出ていた。緞帳のように重苦しい闇の中で白い半月がぽっかりと浮かんでいる。ときおり風に流されてきた薄曇りに挨拶され、姿が薄らぼんやりとした光の塊になる。朧月夜の淡い光を窓から見ると、眼精疲労を強く感じた。ぐらりと目眩もする。三十代が目前となると、二十代になったばかりの頃のような、尽きない電池のような活力は望めそうにない。疲労をなだめるように休みながら、作業を進めるしかない。
栄養剤……カフェインでも飲もうか。彼女の台所を借りて、お湯さえ出来れば、持参したインスタントコーヒーで眠気払いも出来るだろう。
「なあ、悪いんだけど……」
私が彼女に声をかけると、彼女は私に背を向けて、包丁で何かを刻んでいた。
小気味のいい、包丁で何かを切る音が聞こえる。歌っているような、踊っているような。そのリズミカルさと迷いのない刃の音は、耳に心地よかった。彼女は刻み終わると、もそもそと手を動かす。
そして無言のまま、私に皿に盛りつけたソレを見せた。
いぶしたような茶色みがかった黄色い……漬物だろうか。ずいぶんとある。深みのある皿の中に、綺麗に整列された厚めに切られた漬物があった。
どこかで見覚えがあるような気もするが、名前がまったく出てこない。私は腰を落とすように座り込んだ彼女に視線を送った。
「これは……?」
「いぶりがっこだよ」
「いぶりがっこ……ああ、テレビで見たことがあるよ」
そう、確か、秋田県で多く作られているという大根の漬物をいぶしたものだ。食べたことはまったくないが、テレビの画面越しにおいしそうに食べる芸能人を見て、おいしそうだなと思った記憶がある。彼女は熱くて濃いめの緑茶をつくると、私に差し出した。
「いぶりがっこって、お酒にもお茶にもよく合うって言うけど、私の周りでは茶を飲むときによく食べてた」
私はその言葉にきょとんとして、目を丸くした。彼女が自分の素性に関わることについて、話すことがなかったのだ。彼女がいぶりがっこを食べる地域で育ったなんて私は知らなかった。彼女は出会った時には大人だった。不安そうな表情を時折浮かべるが、傍目から見て、それほど変わったところのない女性だった。彼女は現在のことは語っていたが、昔のことについては、会話の流れが止まってしまっても語らない女性だった。
「これ、その、地元の人が義母に贈ってくれて。義母が置いていったの」
一人では食べきれないのでと、困ったように彼女は言う。さりげない言葉で、彼女の過去を障子の穴から覗き見るように知っていくが、思わぬ言葉の大きさに何も言えない。両親はいると聞いていたが、まさか義母と呼ばれる存在と思わなかった。
「他にも秋田の食べ物があって……しばらく食べようと思ってて」
「そう、なのか」
「一人で食べると、泣きそうだから……食べて欲しい」
彼女は私の袖口を掴んで、途方に暮れたような瞳で私を見た。
私はどうして食べ物を食べることで、そんなに情動が不安定になるのか分からなかった。地元の食べ物だ、懐かしさだってあるだろうに。私は訳が分からなかったが、彼女を不安がらせたくはなかった。
彼女は数少ない、私の好きな人だったから。
私はいぶりがっこを一口囓った。歯ごたえのある食感と、燻製の香りが鼻を通り抜ける。塩味がかなり強いように感じるが、その味の濃さが頭に染み入るようで、止められそうにない味だった。私は数枚ぽりぽりと食べ続けた。燻製がくせになりそうで、お茶菓子の一つにはなりそうだった。
私は呟いた。
「おいしいな」
塩味の濃さが、後々口の中を苛んでいくのがよく分かる味がする。
だけれどくせになってしまって、たまらない。
「でしょ。私も好き」
ふわりとつぼみが綻ぶように彼女は言った。
「これが出ているときは、お客さんがいるときだから、お母さんは笑ってた」
「そうなんだ」
彼女はいぶりがっこを食む。咀嚼音を気持ちよく立てる。そしてお茶をぐっと飲んで、いぶりがっこを流し込むと。
「だから、怖かったな……」
私はいぶりがっこに伸ばし掛けた手を止めた。
彼女はいぶりがっこを、目細めて見つめている。
その肩は小刻みに揺れていた。まるで誰かに見張られているかのように。
こちらはテキレボ7に出す「私は食べたい」のサンプルになります。
7月16日のテキレボ7では冊子にして持って行きたいので、とりあえず頑張っていこうと思います。
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