「恋愛」音川太一の家族と恋について④「小説」

「店主は店員を守るもの」

 吉永は次のバイトがあると言って、先に帰った。
俺は店に帰って来るなり、お金の精算をはじめた由香里さんの後ろで、床を掃いていた。
箒の動きは少し悪い。疲れたな、面倒だなという訳ではないのだ。
由香里さんを見ながらしみじみ、凄い一日だったと思っていたのだ。
 由香里さんはお金を数えながら言った。
「こら、もっと箒を動かして。何だか、音がゆっくりよ」
「あ、すいません」
「うち、ほとんど残業代を出せるわけじゃないから、さっさと仕事を終わらせた方がいいわよ」
「そっ……すね」
 由香里さんは記録をつけて、金庫にお金を持っていく。そして戻ってくる間に俺は由香里さんの言葉に従うように、急いで掃除した。
「終わりました」
 由香里さんはゆっくりと頷いた。
「うん、よろしい。タイムカードを押して帰ってね。私はちょっと、勉強しないといけなくて」
 俺は聞き返した。
「勉強……?」
「コーヒー。今までハンドドリップをやったことがないのよ。練習しているんだけど、開店中は他の業務に追われちゃうから」
 苦手だから、なんとかしないとと呟く由香里さんに、俺はまるでスルリと落ちるように言葉を吐いていた。
「え、じゃ、俺、付き合いますよ」
 由香里さんは目を丸くした。
それになんで俺はこんな言葉を簡単に言ってしまったのだと、急に心がぐらっと揺れるのを感じる。俺は声がひっくりかえりそうなのを耐えながら言った。
「あ、いや……そ、そう! 俺もそれ苦手で、吉永に付き合ってもらって練習したんです! ほら、自分で飲むより、人が飲むと思って作ると、何か、上達が早いと思いますよ!」
 言っていることは事実なのに、とてつもなく言い訳臭がしてたまらないのは、何故だろう。
由香里さんはそれを見て、口に手を当てて、くすくすと笑い出した。
「ふふっ、ありがとう。でも時間も遅いわよ」
 確かに二十二時を超えている。
「あ……いいです。すぐ、家に帰らなくても大丈夫なんで」
 今の時分なら、桜を寝かしつけて一息ついている両親が居るはずだ。
顔を合わせづらい。二人が夫婦ということに、俺は何だか何とも言えない気分になるのだ。
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、お願いしようかしら」
「うっす」
 俺は頷いた。
 
「……」
 俺はそっとコーヒーの入ったカップをテーブルに置いた。
「どう、かしら……」
 由香里さんはじっと俺を見ている。
「あー、えぐいっす。苦すぎ通り過ぎて」
「そうかぁ……うーん、難しいわねぇ」
「どう淹れてるんですか?」
「えっとね」
 由香里さんは説明する。それを聞いているうちに「あ」と声が出た。
なるほど、それかと納得する。俺は由香里さんの悪いところを指摘した。
「ああ……なるほどね。スピードが……」
「そう、スピードが速すぎるのかもしれないです」
「ちょっと、そこを意識してみようかな」
 由香里さんは新たな豆を挽こうとする。その時、手を止めて俺に微笑みかけた。
「それにしても、音川君は親切ね。映画館の時も、今回も」
「へ」
 口がぽかんと開く。
「そ、そうですかね」
「そうよ。でもまぁ、映画館は驚いたわ」
「泣いてたのを見つけた俺の方が、びっくりしましたよ」
「そうでしょうね」
 由香里さんは大きくため息をついた。
「ちょっと、反省した」
「反省?」
 由香里さんは眉をきゅっと寄せて苦笑いする。
「いや、ね……私、深夜の映画館で泣くのが、ストレス解消なの。誰も居ないし、うるさくて音も聞こえづらいでしょ」
「そ、そうなんですか」
 何事かと思って近づいたが、ただのストレス解消とは思わず肩を落としそうなるほど、脱力してしまった。
由香里さんは腰に手を当ててため息をついた。
「ええ、だから、やっちゃったなーってね」
「はい……」
「でも、嬉しかったわ。そう……王子様って、こんな感じなのかしらって」
 由香里さんは茶目っ気あふれる表情でウインクした。
俺はそんな由香里さんがおかしな意味ではなく耐えられなくて、視線を外す。
「王子様じゃないですよ、俺は」
「そう?」
「そうですっ、って俺のことはどうでもいいんですよ……つ、次のコーヒーを飲ませてください」
「……ええ、分かった。ちょっと待っててね」

 由香里さんは自由気ままにコーヒーのドリップを始める。
俺は小さく息をついた。

 何だよ、その可愛い表情は。

 コーヒーの試飲する会は終わった。
何とか由香里さんは飲めるだけのコーヒーを作れるようになった。
冗談めかしていたが、作るときの表情はとてもと言わんばかりに真剣だった。
努力家なのだろうなと、俺はしみじみと感じていた。
 ふと、急に昼間のことが気になって、俺は残滓を拭うような気分で由香里さんに聞いた。
「そういえば、昼間にやばい客が来てましたけど、すごいことになっちゃいましたね」
「あ、あぁ、あれね」
 由香里さんは顎をすっとあげて、天井を見る。
「まさか、私以外で通報する人がいるとは思わなかったわ。確か、あの常連のおじいさんには、新参者なので助けて欲しいみたいなことは言ったけど」
「真に受けちゃったんですかね」
「そうかもしれないわね……。余計な手間がある意味省けて良かった」
 完全に通報を本気でするつもりだったらしい。吉永とも話していたが、すごい度胸である。
「でも、一応客なんですよねぇ。大丈夫だったんですか?」
「まぁ、最初はわめいていたけど、警察の前ではしおらしかった。夫には連絡しないでくれって泣いてたわ」
「ええぇ……」
 正直ドン引きする絵面である。あの女性は自分のやっていることがどういうことなのか、分かっていたのか。
だから、身内には知られたくなかったのか。それならするなよと思ってしまうが。
「色々と語っていたけど、別にどうでもよくて、警察に引き渡したわ。たかる目的のような発言は、過去何度も繰り返していたし、逮捕まではいかなくても、色々と言われているでしょう」
「はぁ……」
 由香里さんは小首を傾げた。
「何だか、唖然としてるわねぇ」
 マジかよ。
俺は手のひらを突き出し、顔を下に向けて頭を横に振った。
「いやいや、びっくりしてて。由香里さん、行動力ありますね」
 由香里さんはうーんと唸った。
「だって、あれで他のお客さんも、あなたたちも困ってしまったら、ダメだと思って」
「え」
「お客様はお金を払っているから、対価で私たちはサービスを行っているじゃない。本質的にはそれだけの関係。対価を払われている以上、大事にしなければいけないけど……別に、神様でもないわ」
 俺は言葉を失った。由香里さんの意見はネットではよく聞くけれど、リアルではあまり聞かない意見だ。むしろその考えを実行している方が珍しい。由香里さんに店のことを仕込んでいるオーナーは事なかれ主義で、女王が来ると逃げたり、なぁなぁな態度でやり過ごしたりしていた。
 由香里さんは不敵な表情で俺を見る。
「店主は店員を守る。一部の声の大きい人に、ウチの店を牛耳られてたまるもんですか」
 由香里さんはぽんっと肩を叩く。
俺はこの人の言葉が、けして嘘偽りではないことを感じ取っていた。由香里さんはそれくらい店員のことを考えていたのだ。
 俺は言った。
「なんだか、怖いものがないみたいだ」
 由香里さんは肩をすくめる。
「あら、あるわよ……怖いこと」
「本当ですか?」
「うん、本当よー」
 由香里さんはテーブルに置かれた店の鍵を手に取った。
そのまま由香里さんと俺は店を出る。
「でも、今の私はある意味、無敵よ」
 そう言いながら由香里さんは、鍵を、ゆっくりとかけた。
 無敵とはどういうことか。
 俺は言葉の意味が分からないまま、とりあえず額面通りに受け取って。
「すごいっすねぇ」と、夜空に放り投げるように呟く。

 夜空に俺の声が、吸い込まれるように消えていった。
その静寂な空気が、少し空々しかった。


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