先輩を殺します
――先輩、僕が殺しますよ。今度こそ。
その先輩は突飛な先輩だった。夏のさかりの、汗が吹き出す暑さなのに、冬
服のセーラーを着ている。そして何故か腕を伸ばしてぴょんぴょん跳ね続けて
いる。林間学校のことだった。学年を問わずに集まり、山の中で活動するのだ
が、その中でも先輩はいつでもセーラー服を脱がない、変な人だった。
なんでそんなに跳ねているのだろう……僕は思わず声をかけてしまった。
すると先輩は目を輝かせて。
「オニヤンマ! 取るのを手伝って欲しいの!」と勢いよく言ってきたのだ。
運が悪いことに、それが先輩と僕とのはじまりで、出会いだった。
「ブルーローズで会いましょう」
学校の昇降口で靴を履き替えていると、先輩が肩を叩いてきた。
「また、ですか」
僕が言うと、先輩は大きく頷いた。
「うん、あそこ静かで過ごしやすいし」
「たまにはなんか、別に行きません?」
「だーめ」
先輩は自分の口元に指をあてた。
「私を殺してくれない君の提案は却下です」
先輩のその楽しげな様子に僕は若干苛立ちと、またそのことを言うのかと僕
は思った。呆れた声で言った。
「またそれですか、先輩を殺すなんて却下ですよ」
「つれないなぁ」
放課後になっても明るく、日も出ている外へと先輩は駆け出すように出て行
った。僕はその背中を見て、小さく息を吐いた。
笑顔の可愛い先輩の口癖は、喫茶店である「ブルーローズ」に行きましょう
ともう一つ。「私を殺してね」だった。
ブルーローズは僕と先輩の通っている高校から、少し離れた路地奥の喫茶店
だった。小さな庭付きの喫茶店で、店内の装いはカントリー風。先輩は花壇が
ある庭を見ることが出来る窓際の席を指定席にしていた。
僕が到着すると、庭をぼんやりと見ていた先輩は目を大きくして、手招い
た。
「待ってたよ、もう」
「そんなに待ってました?」
「ちょっとだけしか待ってないけど、待ってた」
「それはすいません」
「まぁいいんだ。ねぇダージリンを頼んでもいい?」
「好きですねぇ」
「うん、大好き」
先輩はは大きく頷き、席へと座り直した。
先輩は時折「死にたいなぁ」とか「殺して欲しいなぁ」とか言う以外は、ご
くごく普通の女子高生だった。たまに変な好奇心が動くことはあったが、それ
でも普通の女子高生だった。
学校の宿題が多くて大変なこと、家の猫が寝転がって可愛いこと。
唐突にこんなことを言うこともあった。
「私は君が好きだなぁ」はにかみながら言うのだ
「……そうですか」
「……あっさりしてるね」
「先輩の好きは紅茶でもオニヤンマでも同列なんで……その、信用度が」
「そ、そんなぁ……」
先輩はしょぼんと肩を下げて、僕を少し睨むのだった。
二つ、紅茶を運ばれてきたので、二人で飲む。
「今日は良い天気だね」
「雨がちっとも降らないですね」
「そうね、快晴だ。ねぇ、こんな日は良い日和じゃない?」
「何がでしょ」
「私を殺すのに」
「……」
僕は持っていた紅茶のカップをソーサーに置いた。
「あの……」
「どうしたの」
僕は先輩の目をまじまじと見た。
「先輩は何で、死にたいんですか」
すると先輩は紅茶を一口飲んで、何でもないように言った。
「臓器をあげたいの」
「え」
「臓器をあげるって、とても素敵じゃない?」
何てことを言うのだ。僕はとっさに言葉が出なかった。
そんな僕を先輩は指で指す。
「でも死ぬなら、あなたの手にかかりたい」
僕は息を飲む。どうしてそんなに楽しそうなのかと思った。それはとても素
敵だと言わんばかりなのか。そんなあっさりと、自分の臓器を人に捧げようと
されても困る。そもそも僕が先輩に手をかけるという前提も困る。僕は犯罪者
になんかなりたくないし、僕はそんなことをするために生きてないし。それに
僕は――。
あなたに生きていて欲しいと思うんだ。
先輩とは一年もこうしてブルーローズで話していた。ブルーローズの売上げ
に僕らは確実に貢献しているだろう。そうこうしているうちに気がついたこと
がある。先輩のセーラー服は確実にくたびれていき、袖口から細い腕が見える
こともあった。その腕には、青紫の痣がたえずついていた。一つではない、痣
に痣が重なり、紫陽花の花のようにその色を腕中につけていたのだ。
それでも先輩は笑う、僕に殺してくれと言っている。
僕はどうすればいいのか、分からなかった。
ある日のことだ、僕は学校に向かう途中にある花屋で、青い薔薇を見つけ
た。たまたま入荷したという、高級生花だった、一本の値段でも高校生のお財
布には大ダメージがくる。僕はつばを飲んだが、それを指さした。
「ください、一本」
男子高校生が贈り物の花を買う。なかなかに僕にとっては、勇気がいった。
でもそうしないといけないことがあった。先輩の気分がよくなさそうだった
からだ。数日前から頭を押さえて、顔色も悪かった、笑顔を浮かべるが、それ
にいつもの活力がない。気持ち悪さが消えないの……と謝ることもあった。
そんな先輩の気分が少しでも良くなればと、珍しい花を買う気にもなったの
だ。放課後僕はブルーローズに行き、先輩を待った。雨がぽつぽつと降り出し
ていた。僕は待った、閉店まで待った。でも先輩は来なかった。
先輩は死んでいた。
僕がそれを知ったのは、学校の友達からの情報だった。先輩が死んで、その
父親が逮捕されたのだという。友達は訳知り顔で僕に情報を伝える、。
先輩の家は家庭崩壊を起こしていたという。父親が暴力で家族を壊すなか
で、先輩は死ぬ数日前に頭を床にたたきつけられた。病院に行けば自分が大変
なことになると父親は、言葉で先輩を縛った。先輩は極度の体調不良に悩まさ
れながら、学校に通い、何も言えないまま、ブルーローズに向かった。そして
その途中で倒れて、死んでしまった。
僕はブルーローズに行かなくなった。いや、行けなくなった。あの店には先
輩の記憶が色濃く残っている。
先輩は僕が察している以上に傷ついていた。ぼろぼろで、腐り落ちて倒れる
木のような状態だった。死にしか希望を見いだせなかった。
――臓器をあげたい。
――臓器なら、人の役に立てて、私にだって価値があるって分かるから。
先輩は一度、そんなことを言っていた。春だった。桜が綺麗な頃だった。
それから困ったように笑いながら、僕の耳元で囁いた。
「だから殺してね、死ぬ方法ぐらい自分で決めたいじゃん」
先輩の中で生に対しての希望はなかった。絶望の闇が心に巣くう。死ぬ方法
くらいしか、先輩のあがけることがなかった。
柔らかな夕暮れの光、ブルーローズの店主は奥に引っ込み、喫茶店内には僕
らしか居なかった。ブルーローズのダージリンは冷めていた。
先輩の唇は甘い紅茶の味がした。
「死なないで……」
僕はかすれた声で呟いた。どうしてそんな行動に出たのか分からなかった。
先輩は僕に執着していたから、僕の存在が彼女を止めるくさびにならないかと
思ったのかもしれない。傲慢でもいいから、僕は先輩を止めたかった。僕はあ
なたに死んでもらいたくなかった。
でも先輩はあっけなく死んでしまった。
僕は高校を卒業して、都会の大学と進学した。ブルーローズのことは名前も
出さずに、「あの時」から逃げるように、日々を過ごしていった。
四年の歳月が経った。
僕は家を片付けたいと話す両親を手伝いに、故郷に戻っていた。都会で就職
を決めていたので、これから何度帰ることがあるのだろうと思う帰郷だった。
物置を片付け、久方ぶりに母親の料理を食べた。父親とビールを飲んで、少
し気分が良くなった頃、母親がこんな話を切り出してきた。
「ブルーローズって喫茶店があるでしょ。あそこの店主が、幽霊で悩んでるん
ですって」
「あぁ、あの幽霊騒ぎだな」
父親は母親の話に頷いた。ブルーローズ、その単語で顔が強ばる。
それでも話を中断するわけにいかず、黙って聞く。
庭の見える窓際の席で、セーラー服の少女が座っているという。誰かを待っ
ているようにも見えるという話だ。僕の心臓は心臓の鼓動が強く打っていた。
幽霊だって……しかもセーラー服。僕の中で思いつくのはたった一人だ。
夕食を食べ終わると、僕は自分の部屋に戻った。布団は新しいものにされて
いるが、室内は出て行く前のままだ。とりあえず横になった。
「どうして……」
先輩は死んだはずだ。あの人の望みは死ぬことだった。それは一応は叶った
はずなのに……僕は天井を見つめて、まさかと思った。
「……僕を待っているのか」
僕は拳をにぎった。指先が震えだしたのだ。
「僕に殺されるのを」
頬に一筋、涙が流れた。
「待ち続けているのか」
僕は起き上がった。先輩……と小さく呟いた。
ごめんなさい、先輩。
僕は先輩が死んでもらいたくなかった。死んだら嫌だったから、そっけなくし
ました。でも死んだら、現実に耐えれなくて――都会で女の人と付き合っても
みた。先輩を忘れさせてくれる人を探してた。
でも見つけられなくて、先輩の笑顔が頭から消えなかった。悲しい現実は忘
れたいのに、忘れようとしてしまったのに……!
「先輩、僕を忘れなかったんですね……」
僕は立ち上がる。そして家を慌てて出ていった。
ブルーローズを目指す。先輩と話したあの場所へ。
先輩は死んでも僕を待っている。僕に殺されるために待っている……四年も
放置した僕を待っている。
もう、不義理をし続けるわけにはいかないんだ……僕は先輩の願いを果たす
んだ。
息を切らせながら走る。
ブルーローズ、先輩と会うために。
そして、殺すために。
ねぇ、君はいつ来てくれるかな。
私はその日を待ってるよ。
ごめんね、殺してもらうことを願ってたのに死んじゃって。
でもね、こんな死に方、私は認めてないんだな。
どうか私の首に手をかけて。
心臓に刃物を突き立ててもいい。お願いだよ。
「私を……殺して」
そうして、その時がやってきた――私の首に彼の手がかかる。
私は泣いて笑った。
「待ってたよ」
彼は頷いた。
「待たせました」
そして私を導くような眼差しで、彼は指に力を入れる。
二度目の死を感じながら私は、絞め殺そうとする彼の指に触れる。
「大好きだよ」
私は最後にそう言った。