机に置かれた精神保健福祉手帳
ある話をしよう。少し彼女が泣きたくなった話だ。
その日、彼女はある携帯機器のオプションサービスの契約解除に向かっていた。
彼女は障害者だった。発達障害の上に精神障害を持っている。服を重ね着するように障害の上に障害を持っている彼女には金がなかった。半月前には解雇同然だが、表向きに自主退職に追いやられている。理由は体調不良と障害を隠していたからだ。
だから携帯機器のオプションサービスをつける余裕はなかった。むしろ邪魔でしょうがなかったのだけど、生来のやる気のなさから、ずるずるとのびたラーメンの麺のように延期をしていた。
彼女は仕事の相談をした帰りに、携帯機器を取り扱う店に寄った。
大通りに沿ってある店は、明るかった。きらきらとまでは言わないが、強い照明に当てられたスマートフォンは人の興味を引くには十分にきれいだった。
ただ店員にはあまり明るさを感じなかった。
声は高く、大きく、聞き取りやすいのだけど、表情がさえない。疲労がたまり混んでいるのを隠さない顔だった。
通常の店の店員ではあまり見られないけど、彼女はこういう仕事は大変なのだろうと解釈してあまり気にしなかった。
彼女は契約解除の申し出をした。
相手は身分証明を求めてきた。
彼女は逡巡した。まいったなと舌打ちをしたくなった。彼女は仕事を辞めたばかりで身分証明になる保険証が手元になかった。自分の体が心配で、交通事故でも起こしたら世間のあたりが厳しい運転免許証なんて彼女は持つことを考えてもいなかった。他に証明で使えるのは、精神保健福祉手帳しかなかった。
彼女は額に手を当てて、変な声をだしたくなった。もちろんとつぜんそんなことをするような障害を持っているわけではないので、しなかった。ただ、気分が良くないだけだ。
精神障害者は世間からは表だっては言われないが、犯罪を起こせばよく怖いと言われる。確かに頭の中で様々な声が聞こえて動けなくなることも多い。その苦痛を理解するのは健常者には難しいことだった。
発達障害は精神障害よりも話がややこしくて、分からない人には分からない。声高にその存在を否定する精神障害者がいる始末だ。契約解除の関する店員の説明も長かった。その上要点が微妙にまとまりきってなくて、人の話を長く聞けない彼女はそれなりに苦痛だった。
でも分かったように頷いた。相手は安心したように頷いた。発達障害は無駄に分かったふりを得意にさせる。
話を戻そう。とにかく彼女は自分をあまり障害者だと周知させたくなかった。
知り合いの中には権利だからだと障害者手帳を堂々と使うものもいるが、世間の風あたりを自覚している彼女はそれを感じるのは、並外れた苦痛なのだ。剣山を掴むようなものだ。彼女は意外と神経が細い。
自分が手帳を見せて、目を丸くする人を見るだけで傷ついている。
彼女は迷いに迷うと、緑色の定期入れのような手帳をだした。写真面が直接表に出ているので、いちいち手帳を開かなくてもいい。
店員は皮膚疾患でも持っているのか、不健康な黒い肌だった。肌は夏とは思えないほどに乾燥していた。汗はなく、鼻のあたりは赤くなっている。彼女は目を丸くした。
あまりの黒さに露骨に驚いてしまった。
店員は彼女の態度に反応を示さず、手帳にも動じなかった。携帯機器の店だから色々なお客が来るし、見た目に寄らない人間も多いのだろうと、彼女は胸をなで下ろした。
店員は彼女に住所も何も変わっていないことを確認した。彼女はそこで思い出す。
そうだ最近、引っ越したのだ。
店員は疲れた顔に貼り付けたような笑みを浮かべて、住所の変更をすることも申し出た。
彼女に断る理由がない。お願いをすると、店員は台の上に障害者手帳を置いた。
彼女はぎょっとする。
そこでは自分の身の上が誰の目につくではないかと思う。まさかと思う。下に置いてくれるよねと懇願した。肌が粟立った。カミソリの裏刃をすりつけられているようだ。いつでも首をか切られてもおかしくない。何も知らない人が側に寄っただけで、彼女の心はかき切られるだろう。
店員は気付かぬ様子で、何度も確認をしながらタブレットにつけられたキーボードを打っていく。住所を小声で読み上げて確認する店員に頭がくらくらしてきた。洗濯機の中に入ってまわされているようだ。自分が洗濯物なら汚れも取れてきれいになるが。今の自分では吐瀉物で服でも汚しそうだ。
不快だった。地団駄を踏みたいくらいだった。それをされたらどれだけ彼女にとって不利益なのか。だが彼女は罵れなかった。
それをすることは、普段は見ないようにしている「普通」の人に対するコンプレックスを直視する行為だった。自分の便を見て食べるような行為に等しかった。同時に人々に向けられた「視線」を思い出す。普段はそんな視線なんてと強がる彼女であったが、その実はやはりひどく悲しく、悲しく、とりあえず人を殴りたくなるほどに、腹が立っていた。
「憐れみ」も「蔑み」も「理解してあげる」というぶしつけな感情も、全部大嫌いだった。
口にしたくないほどに、嫌いだった。怖かった。彼女は唇を噛む。
そうして手帳は誰にでも見られる位置に置かれ、彼女はただ立っていた。
自分の感情で頭がいっぱいになり、微動だにしない彼女は気付かなかったが、後ろからサラリーマンが近づいてきた。スマートフォンの契約を男は考えていた。
そうして彼女の横に立ち、店員に声をかける。男に近づかれて、身をすくめる彼女に男は顔を向けた。そうして一瞬であるが、手帳に目を向けた。