「試し読み」雨と罪「小説」

 いきなり頭をさげられた。場所は普段近寄らない、ちょっとお高い喫茶店でだ。暗めの照明。香ばしいコーヒーの匂い、そして流れるクラシック……そこで俺は目の前の男に頭を下げられていた。
 困惑というか、なんでそんなことをされるのか分からない。俺は慌てて、声を出した。
「やめてくださいっ。何なんですか、いきなり」
 すると男は心底まいったような顔をした。眉間にしわを寄せ、唇を噛む。それからまた深々と頭を下げて言った。
「どうか、里奈と別れてください。お願いします」
「はぁっ?」
 俺は予想もしない言葉に、ぎょっとした。目を見開く。何で今日会ったばかりの男に、彼女と別れてくださいと言われないといけないんだ。訳が分からず、俺はまじまじと男……葉桐さんを見た。
 葉桐さんとお茶をしているのは、高校の友人が、この人とお茶を飲んでほしいと頼んできたからだ。葉桐さんは俺と話をしたかったらしい。お茶代もおごってもらえるし、友人のどうしてもという願いで、俺はしょうがなく了承した。だがまさかこんなことになると思わなかった。
「なんで、あの、あんたが俺の彼女の名前知ってるんですか?」
「……知っていますよ。彼女のことは十分によく知っています」
「いや、それ答えになってないでしょ。しかも俺と知り合いでもないのに、別れろとか普通言わないでしょ」
「……」
「黙ってちゃ、わかんないですよ!」
 俺が思いっきりツッコむと、葉桐さんは小さく息を吸い、それから左手の薬指をさすった。指輪がはめられていた。
「彼女の名前、なんて聞いてます?」
「え、青海里奈じゃないんですか」
「またその名前を……彼女の本名は葉桐里奈です。私の、妻です」
「え」
 嘘だろと思った。里奈が人妻だって? 見た目はおとなしそうだが、結構はしゃぐのが好きな彼女には、人妻らしさが見られなかった。
「彼女、結婚してるとか、そもそも誰かと付き合っているなんて……」
「里奈はこの手口で三人の男の方に声をかけていました。浮気の常習犯なんです」
「はぁあ?」
 何だよと思った。理解が追いつかない。けれど葉桐さんの態度に嘘は感じられなかった。心底真摯に言葉を紡ごうとしている。そして里奈について話を聞いているうちに、里奈が「俺にだけ教える」と言っていた情報がぼろぼろと出てきた。
 それを聞く度に俺の「里奈」という信頼がぐらぐらと揺らぐ。葉桐さんは淡々と語っている。きっと何度も説明しているのだろうと思った。それが無性に、事実だと言うことを俺に突きつけて、苦しかった。ぐりぐりと拳をみぞおちに沈ませているようだ。葉桐さんは最後まで、里奈の不義理を責めなかった。怒りもしなかった。まるでそれが自分の罪だと言わんばかりに受け入れていた。俺はその態度に何も言えなくなる。この人は里奈の業も構わないのだろう。
 飲んでいたコーヒーは、あっという間に冷め切る。俺は喉が渇いていたのに、飲む気力も起きなくなっていた。
 
 葉桐さんから里奈にはもう二度と会わないようにと言われた。連絡を絶つようにと言われた。でも俺はせめて一度は里奈と会わないといけないと思った。
 里奈はどうして夫を裏切っているのだろう。里奈は俺にどうして声をかけたのだろう。本当に俺を愛していたのだろうか。里奈は初めての彼女だった。そういえば里奈は男を導くのがとてもうまかった。考えてみれば、ちょっと慣れすぎているようにも見える。ならば俺は、遊ばれたのか。里奈の第何の男として。
 信じがたい。里奈を信じたい気持ちがわずかにあった。それが未練となって俺の首を絞める。苦しいと思うと、つい里奈に連絡を取った。里奈はラインでスタンプを多用しながら、喜びを表す。その相変わらずな態度が可愛らしかった。
 だけど会わなければよかった。こんなことになるのなら会わなければ良かった。
 今、俺の目の前で里奈が泣き崩れている。往来の真ん中だ。周囲で歩く人の視線が痛い。俺も悪いと言えば悪い。会ってすぐに葉桐さんのことを話したのだから。
「結婚してるのって、本当なの?」
 その瞬間、里奈の表情が壊れた。里奈の涙腺は壊れたかのように涙をボロボロと出す。どうしてそんなに泣くのかとぎょっとしてしまうくらいだ。里奈はその場で座り込み、謝罪する。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 こんなことをするつもりはなかったの。
 まったく支離滅裂な言葉の内容だった。往来で騒ぐのだからやたらと目立つ。まいってしまった、俺は本当に人妻を彼女だと思い込んで、知らずに浮気をしていた間男らしい……。自分の身がとてもつもなく恥ずかしくなる。
 だけど里奈はわんわんと子供のように泣いていると、自分の本当の気持ちをためらわれた。許してと懇願する、里奈に呆れる思いはあった。同時に愛していた名残もあった。可愛い女の子だと思っていたんだ。ずっとこの腕の中で抱きしめていたと考えて、笑ってしまう自分もいたんだ。思い出が、拭えない。愛したという事実が、消えない。こんな時、どういう言葉が正解なのだろう。俺は分からなかった。でも泣きわめく里奈を、怒る気分にもなれない。
「いいよ、こっちこそごめん。もう、別れよう」
 三文台詞だ。
 もっと自分に対して正直な別れ台詞は考えられなかったのか。善人ぶっていることは自覚していた。気持ち悪い。中途半端さを感じずにいられなくて、俺は逃げるようにその場を去った。早足で、やがて走り出して、逃げた。
 
 心に雨が降っているようだ。世界を塗りつぶすような、土砂降りの雨が。
情けなくてたまらない。でもどうすればよかったのか分からない。乾いた地面を蹴るように走る。どうか、現実も、土砂降りの雨だったら良かったのに。俺は舌打ちした。

 家に帰った途端にライン通知がついた。友達……その中でも俺とあまり親しくないヤツからだった。こいつからは学校の諸連絡意外で連絡をもらったことがない。何だと思って通知の内容を確認すると。
 
——お前、とんでもない女に引っかかったんだってな!

 里奈との関係を揶揄する言葉だった。どうしてこいつが知っていると思ったら、次のラインがやってきた。往来での騒ぎ、そして去った俺の姿を見たらしい。興味のままに、里奈にも声をかけたらしく、ヒステリックな彼女の言葉も聞いたらしい。不快さでスマホを握りしめる。しかし連絡はこの友人だけではなかった。他の知り合い、友人からぞくぞくと連絡が来た。想像以上にあの騒ぎは周りに知られたらしい。確かにこの町はそれほど大きくない。それなのにあんなことがあればとんでもないくらいに目立つだろう。頭が痛くなった。俺は里奈との関係に浮かれて、周囲に彼女のことを公言していたのだ。それこそ写真を見せびらかして、思い切りのろけたこともあった。そう考えると、明日と考えて、ぞっとした。明日はどう考えてとんでもないことになるだろう。付き合った相手は実は人妻で、自分は思わぬところで間男になった。笑われるのか、それとも慰められるのか、どちらにしても地獄の光景だった。幸せが強かった分、その反動が耐えがたい。 俺は憂鬱になって、頭をがしがしとかいた。家に着くと、親は居なかった。そうだ、今日は夫婦で食事を楽しんでくると言って、外出したのだ。帰りは遅くなるらしい。もしかしたら二十四時近くになるかもしれない。俺は明日学校だからその時刻のあたりは、部屋で休んでいるのが目に見えた。
 俺はベットに体を沈めた。枕に強く顔を押しつけ、そのままため息をつく。重く吐かれた息の音は枕に吸収された。俺は毛布を引っ張って、そのままかぶった。そうしていると少し落ち着いた。悲しい、悲しい。
 里奈の顔が、おかしなことに思い出せなくなっていた。おかしいなと思った。数時間前まで顔を合わせていたというのに。どうして顔を思い出せないのだろう。もしかしたらこの事態で記憶へのアクセスがおかしくなっているのかもしれない。でも感情が残っているのか、俺の頭はギリギリと痛い。紐で強く締め付けられているようだ
 このまま誰にも会わずに、布団と一体化したい。布団から永遠に出たくない。情けなくて、顔も上げられない。どうして里奈の正体に気がつかなかったのか。恋に浮かれすぎたのか……。自分はとてつもなく感情に溺れすぎている。
 身動きを取るのもおっくうなほどに布団にこもって過ごしていると、ピンポーンとチャイムの鳴る音がした。誰だろうと思う。出たくはない。だが確認しないのも、問題ありだ。この地域は訪問販売や宗教の勧誘はすさまじく悪目立ちをするので、ほとんどないのだ。つまり来客は本当の来客だったりする。俺はのっそりと布団から出て、動きたくない体をむりやり動かした。
「はーい、どうしましたー」
 俺は無警戒にドアを開ける。ドアの向こうには母方の叔父の嫁で、近所に住む草子さんが、袋片手に立っていた。
「こんにちは、春太君。お義姉さんはいるかしら」
 長い黒髪を持つ日本美人といった風貌の草子さん。柔らかい声音で話す草子さんに俺は、力が抜けた態度で、頭を横に振った。それに草子さんは目を丸くして、自分の口に手を当てる。
「あら、ごめんなさい。お惣菜を作りすぎたから、お裾分けに来たんだけど」
「すいません、今日両親出かけてて。帰り遅いんですよ」
 でもお裾分けはもらっとくと言って、春太は草子から荷物を受け取った。鶏肉を酢を使ってさっぱりと煮たらしい。食欲はなかったが、草子さんの淑女のような物言いで料理を説明されると、少し胃が動くような気がした。
「すごいっすね。というか、草子さんはいつもいろんなものを作ってきて……。うちの親より料理が得意かも」
「ふふ、私、これぐらいしか出来ないのよ。お義姉さんにはお世話になっているし、これくらい当然」
「だいぶしっかりとしてると思いますけどね、俺は……」
 すると草子さんは微苦笑して、何も言葉を返さなかった。その理由が分かる気がした。
 草子さんは叔父とは十歳以上の年の差がある。結婚して数年は経つが、まだ二十代中頃だ。叔父は独り身を謳歌しているようなタイプで、周りの結婚話に意も介さなかったが。ある時、突然草子さんを連れてきて、結婚すると言い出した。それを言われて、ウチやウチの親族、そして周囲は愕然とした。なんでこんなに若い子を選ぼうとしたのかと誰しもが思ったのだ。だが叔父は自分の年齢がそれなりになっていることを主張し、結婚適齢期から外れる前に結婚したいと、はんば強引に草子さんと結婚したのだった。 
 そんな結婚をするもんだから、最初は草子さんの扱いに困ったり、親族によってはあからさまに馬鹿にしたりしていたらしい。だが草子さんはそんな親族に対してふて腐れず、一族に受け入れられようと献身した。
 俺の母親はそんな楓子さんに最初に優しくしたらしく、草子さんはことあるごとに、この家に来ていたのだ。
「それにしても、春太君。ずいぶん顔色が悪いけど、大丈夫かな」
「え」
 俺はその言葉に戸惑った。出来るだけいつもと変わらないような態度を取ったつもりだったが、どうも草子さんにはバレバレらしい。
「ああ……マジッスか」
「本当よ。すごく顔色も良くないし、何かよくないことがあった?」
「まぁ、一応」
 一応どころではないとんでもないことはあった。でもそれを草子さんにあっさりと言えなかった。よく知っているとはいえ、恥ずかしくてたまらなかったのだ。すると草子さんは腕時計で時間を確認する。
「今十八時半なのね。もしよかったら気分転換もかねて食事に出かけない?」
「え?」
 草子さんは唇の端をあげて、たおやかに微笑んだ。
「おいしいもの、食べたら気分が良くなるわよ」
「はあ」
「私がおごるから、行きましょ」
 草子さんはあっさりと言った。何の裏もないような言葉だった。そのフレンドリーさに、俺の心は強く反応する。食事はする気には起こらなかったが、しないといけないのは分かっていた。どうしようかと思うくらいだったのだ。でも草子さんにおごられるのなら、俺にはイイコトばかりだ。自分の好きなものを食べられる。俺は照れ隠しに明後日の方向を見た。女性におごられるのは、妙な感じがした。親以外で、何かの企画でもなくて、おごってもらうのはなかなかない。いつも割り勘で勘定しているよなと思った。
「わかりました、ちょっと着替えてきます」
 そう言うと俺は踵を返して、着替えに行った。
 
 地元の町ではあまり良い店はないからと草子さんは、隣の市まで俺を連れて行った。正直有り難かった。此の狭い町では、同級生や知り合いにすぐ見つかってしまう。それなら大きな隣の市で食事をしたほうが良かった。車で三十分ほどかけて、隣の市の駅前に着く。そこにはチェーン店のファミレスがあって、俺と草子さんは並んでその中に入った。
 チェーン店ということもあって、水はセルフサービスだった。草子さんは何も言わず、水を用意して、静かに俺の前に置く。小さくお礼を言うと、わずかに微笑み返した。
「何を頼む? 私も久しぶりなのよ、外食」
「叔父さんにご飯を作らないといけないッスよねぇ」
「そうね……後外食は良くも悪くも目立つから」
「え」
「何でもないわ。さ、何にする? 私サラダも頼んで良いかしら」
 草子さんはメニュー表を指差した。その言葉の勢いにおされて、俺もメニューを探す。からあげとオムライスと、草子さんの頼んだサラダを分けてもらうことにした。
 テーブルはあっという間に湯気を上げた食事や色とりどりの料理でいっぱいになる。
「結構壮観ですねぇ」
「頼みすぎたかしら」
「大丈夫ですよ。俺結構食べられるんで」
 俺はそう言って、唐揚げを食べるべくフォークを手に取った。
食事が進むにつれ、腹は満たされ、多幸感で脳がクラクラした。本能が満たされれば幸せになると思った。なんとも言えないくらい、悩みなんて脳から追い出されたみたいだ。だがスマホで時間が経つのを確認するにつれ、明日がにじり寄っていることに気がついた。憂鬱だ。学校で笑いものになるのか、憐れまれて噂されるのか。どっちが楽だと考えると、頭をどんとテーブルにつけたくなるほどに気が重かった。俺はサラダ菜をフォークに突き刺して口元に運びながら、あーあーと言った。それに草子さんは驚く。きょとんとしている彼女に俺は冗談めかしていった。
「学校行きたくないなぁ」
「あら、そうなの」
「はいー。ちょっと色々あって行きたくないんっす」
「そうなの。でもいけないわよーそれ。学校は大事よ」
 まったく親が言いそうなほどに模範的な回答だ。学校は大事。よほどの大問題がなければ行くべき。都会の学校だったら、もう少し話を聞いてもらえるのだろうか。よく分からない。ただ学校でからかわれなくても、俺の中で「里奈」は黒歴史と言える過去になる。この傷はなかなか癒えそうになかった。俺はのろのろと食事を続けた。少しでも食事という幸せな時間を引き延ばしたかったのかも知れない。だが頼んだ品も全て食べ尽くした。皿に向かって、フォークを突き刺し続けるわけにも行かない。俺は困ったように水を飲んだ。氷がとけて、水が気持ちよく喉の奥を通り過ぎる。すると黙っていた草子さんが急にこっちの顔、厳密には額をじっと見始めた。
「どうしたんっすか」
「ねぇ春太君。さっき、学校に行きたくないって言ってたよね」
「まぁ。はい……」
「それ、本気?」
「え」
「本気?」
 抑揚のない声だった。感情がすっぽりと抜け落ちたような、壊れかけた人形が出しそうな声だ。俺はその問いに考える暇を与えられてない気がした。
「は、はい」
 即答してしまった。実際、そうだった。学校には行きたくない。里奈のことには触れられたくない。あれに触れて良いのは自分だけだ。傷にそっと触れて、いろんなことを考えてもいいのは自分だけだと思っていた。だから触れるな、安直に安易に手をかけるな。そう思うと学校なんか行きたくなかった。
 草子さんは俺の言葉を噛みしめるように聞いていた。そして何度も頷き、やがて俺を直視した。不思議な表情だった。笑っているような諦めているような、寂しげな表情だった。草子さんはあのねと言って、俺の耳元で囁いた。
「あなたを誘拐して、良いかな」
 俺は草子さんから出た言葉に唖然とした。

この続きは2018年5月6日開催の文学フリマ東京にて頒布される雨と罪で読むことが出来ます。

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