幸せな二人の背中
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そのお客が来ると、私は顔をしかめたくなる。もちろんレストランのホールが、お客に顔をしかめるなんて許されない。でも顔を見た瞬間、喉が詰まるのだ。そして上っ面の笑顔で迎え入れる。
お客はもちろん私の感情なんて知らない。私の出迎えに何も疑問を持たず、自分の奥様とスーツ姿の男性を引き連れて席へと向かう。
「ワインを貰おうか。後いつもの」
ぞんざいな口調で壮年のお客は言った。私は腰を低くして、注文をとる。お客が好きな牛ロール肉の煮込みとフランス産の濃い赤ワイン。
初めてこのお客に接客した時、同じ言葉を言われて私は分からなかった。どのワインで「いつもの」とは何なのかと思い聞き直してしまったのだ。するとお客は怒り狂い、マネージャーを呼べと言い出した。どうもお客はこの店の常連で、自分の考えていることは全て店は知っていると思い込んでいるようだった。何という思い込み、傲慢。そしてブランド物のスーツが着込んでいる。多分私の一月分の給料より高いしろもの。
マネージャーはお客の声にすっ飛んできて、私をフォローをしてくれた。お客の隣の席に座っていた品が良さそうだけど、気弱な表情の奥様もとりなしてくれて場は収まった。良い奥様だった。会計に来た時、ブラックのクレジットカードを出しながら。
気にしないでくださいね、夫は少し短気でね。びっくりされたでしょうと声をかけてくれた。
牛ロール肉の煮込みを食べ、赤ワインも愉快そうに呑みながら、お客は語っていた。
「いやね、アルツハイマーと言っても私はピンピンしているんですよ。薬もね、開発されてきているし。色々と自分なりに考えて飲んでいるんですよ」
奥様は隣で薬を用意していた。相変わらず気弱な表情だ。薄幸という言葉がよく似合う気がするのはなぜだろう。お金持ちなのに。美味しいご飯を食べているのに。
薬の数はぎょっとするほど多かった。私はアルツハイマーというだけでこんなに飲んでいるんでいる人を初めて見た。他に病気を持っているのではないかと思った。
ワインを置いて、お客は威勢良く笑いながら、薬を飲み始める。私は気づかれないように、目を逸らした。
今でこそ。そこそこ値段の高いレストランのホールとして、お客に対応している毎日だが、私は以前介護職をしていた。たかだか一年と少しだけど、働いてきた。そこでアルツハイマー末期の姿を見ている。
鏡に映った自分を自分として認識できず言葉をぶつけたり、私には見えない友人と話したりしていた。ある人は表情を失い、ぼんやりと脱力してソファに座っていた。もはや思考することが出来なくなり、荒野のような世界でぼんやりとしているのだと教えられた。
介護はやりがいがあると思う。ゴールのない底なし沼の世界だから。
だけどまぁ、私はそういう職に向いていなかった。人が変容するということが辛くて、辞めてしまった。
私はため息をついた。
あの、自分は例外だと信じているんじゃないかと思うお客の、無邪気な思い込みが羨ましかった。疎ましかった。現状において誰も、不治の病気からは逃げられないのに。
キッチンで飲み物を飲む私にマネージャーが声をかけてきた。
「おい、表情がきついぞ。笑って、笑って。ほら、にぃと」
……私に笑えと言った少しお調子者のマネージャーが変わってしまった。新人の社員になってしまった。長く勤めている非正規からは、しばらくはこっちが助けないととんでもないことになるなと目を合わせた。
仕事は忙しく続く。足はクタクタになり表情は張り付き、新人マネージャーに心を砕く。そうして日々を流すだけで背一杯の毎日。あのやっかいなお客に想いを馳せる余裕なんてなく、とにかく戦っていた。
そのお客が来た時、私は面食らってしまった。
あのやっかいな壮年のお客のことだ。いつもの高級なスーツは着ていなくて、チェックのシャツに黄色のセーターを着ていた。奥様は上品な色のスーツを着ていた。足取りはやや覚束なく、何よりすごく笑顔だった。目が大きくなりきらきらと輝いていた。
「いや、こんないいレストランは初めてだよ。どんなものが食べられるのかね」
何を言っているのだ。お客はここ数ヶ月は来ていないだろうが、常連だ。大好きな牛ロール肉の煮込みを毎度食べていたではないか。
そこまで考えて、私は病が記憶を食ったことに気がついた。息を飲む。
「そうね、素敵でしょう。さぁ、あなた。席に座って」
注文は奥様がした。奥様の表情は見たこともないほどに晴れやかだった。お客をにこにこと見ていた。何か吹っ切れたような、心軽そうな印象を受けた。
奥様はお客の肉を食べやすいように一口サイズに切り分けた。無邪気な笑みでお客は口をつけた。
事件が起きたのは、食後二人が会計に向かった時だった。新人マネージャーが出てきて、いつも来てくださってありがとうございますとお礼を言ったのだ。お客は困惑して目を白黒させて、それから「何を言っているんだ」と怒り出した。新人マネージャーは驚き頭を下げる。私はとっさに二人の間に入った。
「申し訳ございません。こちら新人でして。お客様のことを勘違いしてしまったようです。他の方と。初めて来ていただいて、当店を楽しんでいただいたのに、大変失礼しました」
「そうだ、私は初めてここにきたのだよ。そうだ、そうなんだ」
「もしよろしければ、またいらしてください。お待ちしていますので」
お客はようやく機嫌が直った。破顔しながら頷く。
「あぁ、来るよ。うまかったから。とにかくうまかったから」
お客は待合席に座った。奥様は会計をする。
奥様は言った。
「ありがとうございます。お気遣いしてくださって」
「いえ、そんなたいしたことじゃ」
「おかげで、いい思い出ができましたわ」
その言葉の意味に気づいて私は食い入るように奥様を見た。奥様は穏やかな表情で会釈した。私も頭を下げる。唇を噛む。二人は仲良く連れ添った。夫の背中を奥様が支えて、店を出て行った。
新人マネージャーは申し訳なさそうにぼやいた。
「今の方。また来てくれるよね。これで逃げるとかないですよね」
「多分、いえ……もう。あのお客様は来ないと思いますよ」
「えぇ! 何それ。どうしよう、常連を逃すなんて……」
頭を抱え出す新人マネージャーを無視して、私は二人が出て行った扉を見る。
とても幸せそうな二人の背中が、目に焼きついていた。
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