魔女は人魚に恋をした

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 ある私の恋の話をしよう。今からざっと三百年前の話だ。今になって語り出すのは、私の鰭が石になってきたからだ。醜い人魚の魔女も、年貢の納め時。
 私はずっと誰かの大事なものを奪ってきた。

 三百年前の私は今と変わらず醜かった。けれど誰も私を邪険にしさなかったし、好意も持たなかった。どんな願いも叶える魔法の薬を作れたからね。ただし代価を要求させてもらった。薬を作るのもたやすいが、それでのうのうと幸せになる人魚の姿なんて見たくなかったからね。
 私は人魚の住む森や宮殿から離れた岩だらけの場所に、ひっそりと暮らしていた。森からは、人魚たちが楽しげに歌う姿が見えた。宮殿は夜毎、王と娘の人魚を主役にした宴が開かれていた。
 私はへどろのように顔にはりつく髪の隙間から、腐った魚ような目で、それらを見ていた。嫉妬なんて湧かなかったさ。嫉妬するにも、私はほとんどほかの人魚と関わらなかったからね。執着もなかった。ただ本当に時々、森や宮殿から、ほの暗い妄執を目に宿した人魚が泳いでくる。
 そんなお客を常に待っていたんだ。

 さぁさぁ。おまえの美しい鱗をすべてよこしな。
 痛み止めなんてないさ。悲鳴も涙も、血も対価に頂くよ。美しい人魚のお前が苦しむと、私はよく眠れるんだ。
 そんな言葉を、耳元ではいて、震え上がりながらも観念したように頷く人魚に愉悦を覚えたよ。あぁ、本当に。
 私を必要としているのに、呪われた存在として恐れを抱く。その矛盾を抱えた人魚が痛みで乱れる姿は、今でも忘れられないよ。だけどね、その遊びもあれのせいで終わってしまった。あの人魚を見てしまった日にね。

 人魚族の王の五人目の娘が海から顔を出して、外の世界を見に行くことが許された日。
 私は薬の材料を探しに、あちらこちらへと出かけていた。その内、自分の上を大きな客船が通って行ったんだ。腹立たしかったねぇ。私の存在を押しつぶすように、勢いよく通っていったんだ。私はそういうのが嫌いでね。魔法を使ったんだ。
 その日の晩は大きな満月が群青の闇に浮かんでいたけれど、大きな嵐が近づいていた。何、ちょっとした、魔女らしい行為さ。嵐が直撃した瞬間、大きな渦に船が近付くようにして、船がめちゃくちゃに壊れてしまうようにし向けただけさ。
 それにね。私のこんな海に人を引きずり込むような行為は人魚たちには大受けだった。人間の世界のものは、人魚は珍しくて、いい遊戯道具だった。人間の肉もね。珍味だったんだ。骨はダンスごっこするための相手役としてちょうどよかった。ふふ、物語の人魚とずいぶん違う? 
 そら、そうだろ。お前だって、人魚と会うのはこれが初めてだろう。空想と現実を一緒にするんじゃない。

 あぁ……だけど、あの人魚は。そんなお前たちが想像するような人魚だったねぇ。
 船を沈める手順をそろえた私は、意気揚々と家に帰ろうとした。するとね、歌が聞こえた。
 不思議な歌だったよ。うまいはうまい。けれど魔力の宿っていない歌だった。お前だって知っているだろう、人魚の歌声には魔力が宿っている。人を拐かし、海へと引きずり込ませる魔性の歌声だ。だがその人魚の歌声は、その魔性がなかった。安い言葉だが、純真無垢な歌声だった。真珠を溶かした蜂蜜酒のような、甘ったるくて耳をふさぎたくなるような優しい歌声だったんだ。
 私はその日が厄日だと思ったね。何でこんな不快な気分になるようなことばかりだと思ったよ。
 何もすることも出来ないが、一目自分を不快にさせる人魚の顔を見ようと思った。客として来たときに、たっぷりと代価を頂こうと思ったんだよ。鱗をゆっくりとじっくりと、はがしてやろうと思ったのさ。

 群青色の闇に白い満月がぽっかりと浮かんでいた。時折泡立ちながら、波打つ波の中で、それはいた。
 薄いエメラルドの髪を頬にはりつけ、柔らかな琥珀色の瞳を輝かせて、赤子の肌のようなうっすらと赤みをさした肌。なめらかで柔らかそうな肉付きの腕を伸ばして、人魚が歌っていた。桜色の珊瑚の髪飾りには人魚の王家の紋章がゆらゆらと揺れている。

 なんて、美しい。

 なんて、けがれのない。

 なんて、出来損ないな。

 可愛い、可愛そうな、仔ども。

 魔女の力が私に囁いてきた。あざけりをもって。
今、自分が見ている人魚は人魚としての能力に欠けていた。魔力のない歌声、人間をおもちゃとして扱えない感性、何も知らない純真な無知であるが故に、愛されて、宮殿の外に出されなかったのだろう。意志を持たない人形のような人魚。
 その存在価値は、魔女として欲される自分より劣っていた。
 けれど私は身動きもとれずに、人魚を見つめていた。
今まで感じたことのないほど、心は動揺していた。心臓がぎゅっと縮こまり、ポンプは勢いよく血流を全身に送り出した。指先がじんとしびれる。口の中は乾き、のどがこくりと動く音が頭の中で響いた。
 私は、恋をした。一目惚れ、世界中の人魚に恐れられ必要とされる魔女が、こんな頭が欠損したような人魚に惚れるなんて、誰が想像しただろう。私ですら予測できないことだった。

 人魚は船に向かって歌っていた。恋の歌だった。だが魔力の歌声では、誰も人魚の歌に気づかないだろう。波の音でかき消されるはずだ。だが、人魚は一生懸命に歌う。その拙い感情は私の胸の奥をちりちりと焦がす。
 私は厄日だと再び思ったよ。
 会ってはいけない運命に出会ってしまった。私はいたたまれなくなり、その場を逃げ出したよ。
 けれどそれで恋に目覚めた心から、逃げられるわけがないのにね。馬鹿だよ、恋は頭をおかしくさせる。

 そして、その晩。予定通りに。大きな客船が沈むほどの嵐が起きた。

 その日から私は調子を崩して、薬づくりもうまくいかなかった。寝てもさめても、人魚の姿は瞼の裏に浮かび、歌声が耳に響く。うっとうしいはずなのに、頭がぼんやりとしてしまう。幻想の人魚の歌声に心あらずになってしまう。情けなかったねぇ、そんな自分を恥じたよ。すべての人魚の畏怖であるべき自分が、たった一人の人魚に意識をとられるなんてさ。

 だからきっと、私も人魚も罰が当たったのさ。恋をした罪を、きっと天上の神様は許さなかったのさ。

 未来を見通す水晶を磨いている時に、お客がきた。
ゆるゆると顔をあげて、お客の姿を見ると私は目を大きくする。そして近くにあった襤褸布をかぶって、自分の顔を隠した。
 あの嵐になる晩に歌っていた人魚が、真っ白に近いほどに顔を青くして、そこにいたのだから。

ーーこちらが魔女のお宅ですか?

 声もかすかに震えていたが、強い意志を感じるものだった。私は海の流れでゆらりと揺れる人魚の長い髪を見た。 私は動揺を隠すように、ことさら低く平坦な声を出した。

ーーそうだよ。人魚のお嬢さん。私に何用かい? 私は魔女。対価を元に願いを叶えるもの。冷やかしなら、宮殿へとお帰り。

 人魚は頭を横に振った。強く強く私の言葉を否定した。

ーー私の願いを叶えて欲しいんです。私に二本の足を下さい。人間にして下さい。

 ……絶望したねぇ。この願いを受けるのは初めてじゃないんだ。たまにいるのさ、人間になりたがる人魚が。そいつらはもれなく、人間に恋をしていた。
 私はワラったさ。哀しくて、ワラうしかなかったさ。
あまりに絶望すると、自分のぐずぐずの肉に、痛みの棘を刺したくなるのさ。何もかもがどうでもよくなってね。
 その時もそうだった。

ーーヒッヒッヒ。お前さん、恋をしているね。人間に。私はわかっているよ。

 人魚の頬は桜貝のような色に染まった。少女らしい顔だったよ。同時に瞳は濡れていてね。男を欲する瞳だった。 可愛らしかったねぇ。初めて出会ったときの人形のような表情に比べて、魅力的だった。愛らしかった。綻んだ花の蕾のような唇を縫ってしまいたかったよ。きっと人魚は生きていて、一番に輝いていた。恋の魔法にかかっていた。けれど彼女の視線を向けられるのは、外の世界の男で。その男と会うために、この仔は怯えながら、私に願い出ているとしたら。その心を想うだけで、私の心臓が白銀の糸でぎりぎりと締め付けられた。

ーーそう、です。好きな人が出来ました。彼にもう一度、会いたいんです。そのためには、人間になるしかないんです。

 苦しげな吐息。潤みが増す瞳。紅潮する頬。
もう十分だった。人魚の恋は本物だ。この子は恋のために、対価を差しだそうとしている。ならば私は……私は……。
 人魚の腕をつかんで、私はけたけたと笑った。

ーーわかったよ。わかったよ。可愛い人魚。対価をお出し。お前を人間にする薬を煎じてやろう。

 魔女らしく、魔女の役割を遂行するだけだ。
 私は鱗に宿る魔力を確認するために、腰元を手でなぞった。そこで気がついた。彼女の半身は、まるっきり魚だった。人魚という異形の存在なはずなのに、まるで魔力がない。これでは対価にならない。なら、この願いに対応するだけのものなんだと全身に目を向けると、声に力が宿っているに気がついた。恋によって目覚めた魔力がそこに集中している。人間になるには、この声を奪うしかなかった。
 いやはや……泣きたくなったね。この時ばかりは。
声を失った可愛らしいだけの人間に、何の魅力があるのか。まともな舞台では太刀打ちできないだろう。夜をともにしても、何も知らないであろう人魚は男にいいようにされるのがオチだ。人間らしくなった人魚は、人間になったら人形のように扱われる。それはこっちの心が張り裂けそうだったね。だから思わず声を震わせて聞いたのさ。

ーーお前の鱗には魔力がない。お前を人間にするには、声を、頂くことになる。

 指先が震えたさ。魔女らしく振る舞わなければと思って足を踏みとどまらせていたが、私はひどく情けない顔をしていた。襤褸布をかぶって良かったと思った。
 人魚は私の腕を掴んだ。震える私の指を自分ののどにあてがう。思いの外しっかりとした声で言った。

ーーもらっていってください。遠慮なくお願いします。私の声をあなたに、あげましょう。

ーーだから、私を人間に。

 私は思考を止めた。身体の底から沸き上がる衝動のままに、彼女の声を奪った。

 記憶が曖昧なんだ。ここあたりは。
いつの間にか、人魚は姿を消していた。薬を渡した形跡があった。人魚の声の魔力が虹色の球となって、私の周りを回っていた。水晶が人魚の姿を映していた。黒い手のような炎に包まれていく姿が映っていた。

 私は、声の魔力を胸に抱えて、叫ぶことしか出来なかったよ。

 ある童話では、人魚は恋をした男。王子様と出会うことが出来た。けれど王子様は人間になった人魚に命を救われたことに気づかず、別の女と恋に落ちた。
 大きな客船で王子様と女は結婚し、人魚が悲しみの波におぼれていると、私に対価を払った人魚の姉たちがナイフを渡す。それで想い人を殺せば、お前は人魚に戻れる。だけど殺さなければ、泡となって消えてしまう。
 人魚に残された時間は少なかった。
 人魚は女と眠る王子様の元に向かったが、ナイフを振りあげたが。殺せなかった。自分の存在に気づかなかった愛した人を、殺せなかった。
 この人の安らかな寝顔を壊すくらいならと笑った。
 笑って、海に落ちた。そうして泡になった。

 深海に泡が落ちてくる。私は手を伸ばした。私の周りを回っていた声の魔力は反応する。かつて自分を宿した主の帰還に驚いているようだった。
 私は泡を優しく手で包む。そうして、口づけをした。
 泡はぱちんと弾けて、私の中で消えていった。

ーーおかえりなさい。

 私はそう、呟いた。

 三百年の時間が流れた。
今はもう、私以外、人魚はいない。人魚という存在は童話だけに出てくるような幻想へとなった。
 お前は最後の私の観測者。
 もうすぐ、私は死ぬ。全身が石化する。
だけどね、怖くないんだ。死ぬときは、あの子の声と一緒だ。死んだ先にも、彼女がいる。
 だから何も怖くない。

 むしろ、少し楽しみなのさ。

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