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作家と女房~嬉しい顔~

 その日、相も変わらず花月はむくれていた。
 それを見ていたのは彩華である。彩華は仕事用につけていたエプロンをはずし、頭を傾げた。
「どうしたのですか、奥様」
「あ、彩華ちゃん」
「いえ……なんとなく気分が悪そうで……」
 すると花月は苦いものをかんだような顔をする。
「あ、わかるかな」
「はぁ……わかりますねぇ」
「それは申し訳ないわ……」
 花月はやれやれとため息をつく。
「大したことじゃないのよ。先生に怒っただけ」
「まぁ」
 それはよくあることだ、花月は長い髪の毛の一見大人しそうに見える女性だが、内面は火のつきやすいことで定評がある。それでも彩華は花月のことは好きである。花月の怒りは基本心配が根底にあり、先生への感情の強さが大きくでるからだ。
「今度は何で……」
 彩華が聞くと、花瓶に生けられた紫陽花を見ながら花月は口を開けた。
「虫歯よ」
「え」
「あの人……虫歯を放置しててね、前から言ってたのよ……ちゃんと歯医者に行きなさいって」
「あら」
 花月は痛そうに頬に手を当てる。そして迫真の演技で……。
「しゃ、しゃべるのが……辛い」
 そう言い、夜叉が笑ってるような顔をした。鬼が笑っているようなのである、笑顔のはずなのに非常に怖い。
「すぐに連行したわ……歯医者に。すぐに治療しないとダメなんですって……長くなるらしいから家に戻ってきたの」
「それはご主人様らしい……」
 彩華の主人であり、花月の旦那でもある先生は基本的に無頓着なところがある。さまざまなことに、作家としては普通に想像力があるのに、どうしてそういうことになると思うのだ。
「まったく、早く治しなさいって言ったのに!」
 どうしてあの人は……ああもぅと花月の中のもやもやは最高潮に達していた。それを見て彩華は、これは……いけない!と、えーとえーとと言いながら、こう言い出した。
「そうだ、町の和菓子屋に行きませんか……?」
「和菓子屋?」
「ええ……今日は安いんです。何でも店の開店日らしくて……」
「まぁ」
 花月の暗い表情はいっぺんに明るくなる。彼女は名前に花という名前が付いているが、本当に花のような華やかさがある。特に暗い表情をしているときの萎れた花のような雰囲気とは大違いだった。彩華は小首を傾げ、ぐっと拳を握った。
「いきましょ! 奥様!」
「そうね……!」
「あ、でもご主人様は……どうしますか?」
「今はあんまり考えたくない……あの人ったら……」
 また表情が落ち込み出す花月に彩華は、すぐに帰ればいいですよねと言った。今は作家のことを持ち出すのは禁物だと彩華はひやっとした。

 そして二人は町の店へと向かった。
 商店街の中にあるわき道の奥にある店が、彩華の言うそれだった。店はにぎわい、人の出入りも激しかった。
 のれんを潜り、団子を買う。三食団子の彩りは美しい。
店先には飲食出来る場所があり、二人は長い座椅子に座った食べ始めた。
「おいしいです、団子がほんとに……もちもちして」
 彩華は目を大きくして、団子を口にほおばる。
 それを見て花月も頷く。
 彩華の知っている店は少ないが、それでもこの和菓子屋はおいしいことはよく分かった。餡の甘さは食べればすっと消えるような儚さのある甘さ、餅は軟らかく子供の頬を押しているかのようだ。花月もおいしそうに食べていると……おばあさんが一人、よっこらしょと歩いてきた。だいぶ足が悪いようで、歩くのがおぼつかない。それを見た花月はすくりと立ち上がって、おばあさんの元へと駆け寄った。
「奥様……?」
 彩華が花月の様子を見ていると、花月は彩華を呼ぶ。
「悪いんだけど、彩華ちゃん……この方の代わりにおはぎを買ってきてもらえない?」
「え」
「ちょっとね、足が辛いんですって」
 花月はよろよろと歩くおばあさんを座椅子へと誘導した。花月は小さく頷き、ネズミのような素早さで店へと入った。

 花月はおばあさんに、座椅子に置かれていた水筒からお茶を出し、おばあさんに渡した。
 おばあさんは小さくお礼を言う。
「ありがとうございます、おはぎまで買っていただけるとは、本当に申し訳がない」
「いえ、そんなことは」
 花月は頭を横に振る。あのまま放置していたらおばあさんは転んで大変なことになっていたかもしれない。
「近くまでは車に送ってもらったんだけど、駐車場がないから……ここまで歩いてきたのよ」
「そうだったんですか」
「よかったわぁ、これでおはぎを買って帰れる」
 深くしわを刻み込まれた顔をくしゃくしゃにしておばあさんは喜んだ。その無邪気な、そう純真な様に花月の心は揺らぐ。どうしてそんなにおはぎを買えるのが嬉しいのだろうと興味を湧かせるには十分だった。
「ここのおはぎが好きなんですか?」
「そうねぇ……私が好きと言うより、夫がね、大好物なの」
「旦那様が?」
「ええ」
 おばあさんは小さく頷いた。
「おはぎを食べたがってしょうがないの、私以上に足が悪くてね、家にいるしかないのだけど」
「そうなんですか……」
 おばあさんの年齢もかなりのものに見える。もし同世代の旦那様だとしたら、体に大きな不調があってもおかしくないだろう。
「でも、すごいですね……旦那様のためにおはぎを買うなんて」
「あら、そうかしら」
「大変じゃないんですか」
「そうねぇ、大変よ……でもあの人が喜んでくれるならって思うとねぇ……つい」
 なんだか花月は感動する。よほど良い旦那さんだったのだろう、このおばあさんの旦那様は。それに比べて、先生ったら自分の不調を隠して、痛くてたまらないまで放置するなんて、馬鹿じゃないかと思う。虫歯だって馬鹿にならないんだと花月は思う。
「うらやましいですね……よほどいい人なのかと」
 するとおばあさんは肩を震わせて笑った。
「それがねぇ……ダメな人なのよ。私にはとびきり優しかったけど、カッコつけでねぇ……すぐに人におごったりするし、金がないのにほしいと思ったら、高い背広だって買ってしまうの」
「それ……本当ですか」
 息をのむ花月に悠々とおばあさんは頷く。
「えぇ、本当よ」
「それはちょっと……」
「ダメなところは数え切れないくらいだけど……私には優しくてね。それでつい騙されちゃうの」
「……」
 花月は何もいえず黙り込んでしまった。何と言えばいいのか分からなかった。しかしおばあさんはおはぎを買えるのを大変喜んでいた。優しいがダメな男におはぎを買えてどうしてそこまで……喜べるのか。花月はぐっと拳をにぎった。
「とても愛してらっしゃるんですか? 旦那様を」
 するとおばあさんははぐらかすような曖昧な笑みで。
「さぁ……でもね、あの人の喜ぶ顔を考えるだけで……とても嬉しいの」と言った。
 花月にはそれで十分な答えだった。

 彩華が言った。
「よかったですね、おばあさんにおはぎを渡せて」
「そうね」
 花月は半ば呆然としながら、小さく頷く。そして彩華に聞いてみた。ちょっと声をうわずらせながら。
「彩華ちゃんは……どういう時が幸せなのかな」
「え、突然ですね」
 困惑を隠せない彩華に、ごめんねと言いつつ花月は話を進めた。彩華は頭をひねり、それから少し照れ笑いをした。
「そうですね……ご主人様と奥様、二人が笑っている時ですかね」
 花月は胸が突かれたような衝撃を受けながら、小さく笑った。迷いが晴れた気がした。もやもやは晴れて、空に緑風が吹くような思いだった。
「うん、ありがとう」
 花月は彩華の頭を優しく撫でた。

 夜になった。満月がのぼり、犬の鳴き声がさかんに鳴いている。そこに歩くは不惑の男が一人、羽織をつけた着物を来た作家だった。先ほどまで医者にかかっていたので、非常に歯が痛む。家に帰る頃までには飲食は可能になるだろうが、それでもすぐには固いものが食べられるとは思えない状態だ。
「おかえりなさい」
 猫の絵が描かれた提灯を持って、花月が路の真ん中に立っていた。
「いたのか、花月……」
「ええ、いましたよ」
 そこで作家はもごもごと口を動かす。しくしくと痛む顎を押さえながら。
「まぁ、悪かった……歯痛を放置して」
「遅かったですね」
「だいぶ治療してもらったからな」
「そうですか……」
 提灯と月明かりでわずかに見える女房は、唇をとがらせている。
「おかゆを作ってます」
「え」
「おなかが空いてるでしょうと思って」
 今朝の剣幕とは嘘のように、花月はずいぶんと大人しかった。いやむしろ恥ずかしそうに顔を背けてる。
「ありがたい、腹が空いてたまらなかったんだ」
「なら、食べますか?」
「もちろんだ」
 作家が頬をゆるませて笑うと、花月は何ともいえない顔をして、閉じたまま唇をもごもごと動かした。
「どうしたんだ、急に」
「いえ……」
 花月はすすっと作家の隣に立つ。
「はやく帰りましょ、あなた」
 抑揚のない声、しかしそれには隠しきれないような喜びが潜んでいた。作家は小さく唇の端をあげ、彼女の空いた手のひらを握った。彼女の肩は跳ね、それから震えた声の調子で。
「私って、馬鹿」と言い、はにかんだ。

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