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蜂蜜選びと恋

 恋は蜂蜜のようにうまく選べない。

 蜂蜜フェアに行く朝、私ははれぼったい瞼を冷やしていた。冷水に漬けたタオルを当て、ぼんやりと夜明けの空を見る。そんな時、ため息をつきそうな自分をこらえながらーーあぁ、何故にこんな恋をしているのかと思うのだ。

 私のつきあっている人はネガティブな人だった。普通にしゃべっていると気づかないけど、いつも卑屈に物事を見てしまうのだ。
「あの人より出来ないのに、それでも頑張らなきゃいけないのって何でだろ」
 昨日の夜更け、そんなことを言っていた。私はその話を黙って聞きながら、この人はどうして自分の良いところを見ないで、自分の悪いところを見つけてばかりなんだろう。そしてそんな自分をさらに卑下するから、滓ほどもない自尊心がさらになくなってしまうのだ。
「明後日も会社だよね」
 彼は小さく頷く。ネガティブになった彼の頷いてる様は幼く見える。きっと子供の頃から、こんな時に頷くときは、ずっと同じように頷いてきたのだろう。
「でも行かなきゃだめだよね」
「そうなんだ……」
「じゃあ、行こう。そうしよ」
 私が彼の肩をたたくと、彼は観念したかのようにうなだれた。それから私は彼から離れて、牛乳を温めた。ふつふつと温まった牛乳に蓮華の蜂蜜を混ぜる。蓮華の蜂蜜は切れてしまった。明日、蜂蜜フェアに行くから助かったと思った。
 彼に牛乳を飲ませる。浮かない顔であったが、甘い牛乳を飲むと、表情が緩む。
「ありがと……」
「うん」
「うまいな、こういうの」
「うん」
 私は頭を傾げた。
「お仕事辛かったら……言ってもいいけどね。辞めないでね」
 彼は黙り込んで、それからゆっくりと私に視線を合わせた。
「頑張ってみる」
 よしと私は拳を握った。それでその日は穏便に過ごした。そのはずだった。

 蜂蜜フェアはにぎわうということで、彼と早めに横になった。蜂蜜牛乳のおかげだろうか、彼はすやすやと眠っていた。夜明けの四時半、唐突に目が覚めた。睡眠はよくとれる方なのに、何故か目が覚めた。泣いていた。
 さめざめとした涙が頬を伝っていた。何故泣いたのか、分からなかった。時々こんなことがある。それも彼が隣にいるときに起こる。さめざめと泣きながら、彼の安らいだ顔を見た……きっと彼の底に眠る群青色の哀しみが感染したんだと思った。彼はとても安らかな顔をしていたからだ。
「ばか……」
 私はベットから抜けて、寝室から出た。

 うすいほうじ茶を飲む。夏なのに、部屋は涼しい。気温が高くなりきらない夏だった。体育座りをしながら、狭い部屋の窓から空を見た。群青と桜色が空で混ざり合う、夜と朝の間に私はいた。腫れぼったい瞼は冷やしたおかげで楽になっていた。
「仕事辞めればなんて言えないよ……」
 安直にそんなことは言えない。辛いとしてもまだ踏ん張れるのなら頑張った方がいいと思う。この国では、あるラインがある。そのラインにたどり着くことも大変だけど、そのラインにいれば一定の収入と社会的な信頼を得ることが出来る。でも……そのラインは一度外れてしまうと、もう二度とそこで歩くことが出来なくなってしまうのだ。
 そのラインから私は外れた。そして時間給でろくに休みもとれない私は、ラインとライン外の生活の差をよく知っている。この生活にしたおかげで健康は取り戻せたが、だからといってこの生活がいいとは思えない……。彼にはそれを味わってもらいたくなかった。
 彼の下がった肩を思い出した、胸が締め付けられるように苦しい。正社員ははたして今や憧れのモノだろうか。少なくとも私にはそうではない。とても過酷で耐えられそうにない。だけど踏みとどまって欲しい、その収入は、バイトで稼ぐとしたら困難極まりないのだ。

ーーなんでこんな恋をしているのか。
 私は頭を膝頭に押しつけながら考えていた。
 そう金魚が悪かったのだと思う。
 私の好きな画家の、金魚が金魚鉢の中で泳ぐ絵を、笑いもせず、真面目な顔で。
「俺も好き」
 そう言ったから、興味を持ってしまって、興味はやがて苦しいほどに想いが募る恋に変わった。恋とはおかしなモノだ。その人がよく分からなくても惹かれて、どうしても隣にいたくなってしまうのだ。
 だけどこうネガティブだとは思わなかった。はじめはそんな一面はまるで見せなかったからだ。何故にこんな恋をしてしまったのか……。最近じゃ私は何度彼を励ましてるのだろう。見返りを求め出したら、関係はおしまいになるかもよ……友人に愚痴った時に聞いた言葉が耳に刺さる。

「あ、おはよ……ここにいたのか」
 彼が目をこすりながら私に言った。
後ろからトイレの流れる音がする。
「気分はどう?」
「悪くないよ」
 彼は私の前に座った。
「君はずいぶんと……」
 そう言いかけたので、言葉で遮った。
「表情が暗い?」
「まぁ、うん」
「そうだね……うん……」
 私は前に置かれたガラスのテーブルにひじを突いた。
そして持っていたほうじ茶を置く。
「癒されたいのかもしれない……」
「癒されたい?」
「うん、そうだね。こう、癒されたい……」
 私はくたびれた笑みを浮かべた。それに彼は自分を指さした。
「俺を活用する?」
 それをすっとぼけた物言いで言うから面白かった。俺が癒してやる……そんなことは言わない。でも自分はなにか活用できるのかなと聞いてくる。ずいぶんと滑稽だ。滑稽だが、切なくなる。
 私は頷いた。
「まぁ……うん、そうだね」
 私は彼に近づき、手首に触れた。
「ぎゅうとしてくれたら……癒されるかも」
 癒されるかも……ではない。魂が溶けてしまいそうなほどに嬉しくて……ずっとずっとこうであればいいと願ってしまうほどに……心が軋む。彼で傷ついているのに、彼でなければ痛みが消えない……これはどうしたらいいのか、私には分からない。でも涙の感触は忘れて、少し元気になれた。

 翌日の昼前、蜂蜜フェアに到着。
 たくさんの蜂蜜ショップが、フロア中に並び、さまざまな蜂蜜も並んでいる。さかんに味見をどうぞと声がけが聞こえてきた。
「すごいよなこの数。全部舐めたら舌がおかしくなりそう」
 彼が若干呆然としながら言った。
「むしろ、そんなに舐めるつもりでいたことがびっくりだよ」
 興味を持ったのだけ、舐めればいいのに。彼はずいぶん生真面目だった。
「それも、そうだな……よし、とりあえず回るか……」
 彼は小さく頷き、蜂蜜の瓶をとる。様々な花から出来るから、彼自身、その数の多さに戸惑っていた。私だって正直こんなにあるのかと思ったけど、彼の驚きの大きさに逆に冷静になっていた。
 そうして探しているうちに蜂蜜を使ったアイスを二人で食べた。それから私は化粧室に行きたくなり、彼から離れた。

ーーあ。
 そう声を出しそうなくらい立ち止まった。かなり高齢……八十代くらいだろうか、小さなおじいさんとおばあさんが蜂蜜を選んでいるのに出会した。
 行こうとしたルートに人波が集まっていて、行くに行けなくなってしまったときだった。
 しょうがなく人波が去るのを待っていると、老夫婦の声が聞こえてくる。
「蜂蜜がたくさんですねぇ」
「こんなにあったら、お前が大変だろ」
「あら、どうしてですか、貴男」
「そりゃ、ふたを開けるとき。どうするんだ」
「ふふ、あなたがいるじゃないですか。もしくはそう、ヘルパーの角川さんにやってもらってもいいでしょう」
「……」
「あら、貴男?」
「あんな優男にやらすことじゃない、私がやるよ」
「……そうですね。貴男にお願いしましょう」
 それからおばあさんが、ちらりとおじいさんを見た。
「蜂蜜選びはずいぶんと優しいですよね」
「何がだ」
「味をちゃんと確かめて選べるところです。人間と違って、ずいぶんと親切ではありませんか」
「まぁ、そうだなぁ。人を選ぶということは、蜂蜜より容易くない」
「私はずいぶんと引きが悪かった」
「え」
「でも、選んでしまったんですもの。この人とちゃんと歩くと決めたんですもの……悪くないですわ、今」
「そうか」
「運命なんて、実は会うものではないのかもしれませんね……」
「……そうか」
 足取りが悪いおばあさんの手を、自分が杖代わりになろうと思ってか、おじいさんは自然に手を差し出した。しわだらけの手が重なり合った。

 私は人波が去った後なのに、動けず、老夫婦の後ろ姿を見ていた。私は彼を運命の人だと思いたい、この人と添い遂げたい……でも彼は私を果たして導ける力をもっているのかと思っていた。運命の人に私を幸せにしてもらいたいと、心の片隅で思っていた。
 でも、本当はそうなんだろうか。果たして幸せにしてくれる運命は出会うものなのだろうか……。
「作るものなの……?」
 運命という事象は作ることが出来るの?
蜂蜜のように確かな存在(モノ)を選ぶことが出来なかったとしても、それを作って、手に取れるのか。
 でもそれを出来るには、強くならなきゃいけないだろう。もっともっと、彼と手を取って、むしろ引っ張れるくらいに。
 幸いなる道は自分で掘削しないと出来ないだろう。
 私は目をつむり、拳を握った。
「……やれること、きっとあるよね」
 小さく呟き、私は彼の元へと足を踏み出した。

 彼の元へと戻ると、彼は見せたい蜂蜜があると私を連れていった。蓮華の蜂蜜だ。それを彼と店員に勧められるまま、味見する。目を見開く。
「おいしい!」
「だろー」
 彼は得意げである。私は彼に、いろいろな食べ物の名前を出して、蜂蜜をかけたらどうだろうと提案した。饒舌になる。いけないと分かっていても、好きな人には多弁になってしまう。最後に私ははっきりと言った。
「よし、買おう」
「即決だなぁ」
 彼は笑うと。
「即決だよ」
 私も笑った。
「これはいいよ。欲しい」
 人も蜂蜜も。
 素敵だと思ったら、運命と信じたのならーー私はどうしたって欲しい。蜂蜜と違って、いや比べるものかは分からないけど、人選びは慎重にすべきだけど。
「無理だったな、それ。……まぁいいけど」
 ぼそりと言う。
 あまりに小声だったからだろう、彼はうまく聞き取れず不思議そうな顔をした。気づいていたが、それはあえてやり過ごし、私はレジへと蜂蜜を持って行った

 この蜂蜜を何度二人で食べるのだろうと想像したら、それだけで楽しくてしょうがなかった。

#掌編 #小説 #恋愛

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佐和島ゆら
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