梅の香りに包まれて(BL掌編)
二人の家の玄関脇にはボトルがある。
その中身は春秋(はるあき)の同居人である頼政が漬けた梅酒だ。
春秋と住むようになったばかりの頃に、急に思いたったように作り始めた。
大事に、まるで守り通すように作られた酒を試飲させてもらうと、フルーティさの中に水のような透き通った味がした。
「もう、これ飲めるぞ」
「いやいや、まだだよ」
ひっそりと頼政は笑う。その白い首筋はかみつきたくなるほどに綺麗だった。
頼政と春秋は男同士だったが、付き合っていた。
最近になってようやく、同性愛の認知の声があがるようになったが、それだとしても世間の目はハイエナとさして変わらない。興味という牙を剥き出しにしている。
あまり表だって言えることではない世情だ。二人は兄弟と周囲に偽って暮らしていた。お互い、仕事は順調だったが、ある日春秋の会社で一つ事件があった。
「どうもうちの会社の中に、いるらしいぞ」
「いる?」
「ああ、ゲイだよ、ゲイ」
同僚の浅川は完全に面白がっていた。
春秋はその状態におそれおののいた。大学時代に、同じ性的な指向を持っていた仲間がいたのだが、そいつは秘密を暴露され、衝撃のあまり飛び降りをした。……死んでしまった。
その時のことを思いだし、濡れたような犬のように身震いする思いで、春秋は立ち尽くした。
すると浅川はたばこの息を吐きながら、春秋に言った。
「お前は、同僚がゲイだったらどうする? 自分を好きになられたらどうする?」
「え」
「……すげぇ、びっくりしてるな。まぁ、そうだろうけど」
浅川はけらけらと笑った。
春秋は表情には出さなかったが、その心は怖気になで回されて縮み上がっていた。
どうしてそんなことを言うのだろう。同性を好きになることは、それほど、話題になるようなことなのだろうか。春秋は迷いつつも、ぼそりと口にした。
「ちょっと困りますね。俺的には」
「へぇ。ちょっと、なんだ」
少し驚きを見せる浅川。そんな言葉が出るとは思っていなかったらしい。
「大分迷惑じゃね? だって、そういう目で見てるんだぞ。怖いわ」
「はあ」
「あ、別にそういう嗜好を否定している訳じゃないぞ。俺にとっては迷惑なだけ」
浅川はオカマバーで遊んだこともあるらしかった。
随分派手に遊んできたらしい。愉快そうな表情を浮かべていた。
「ああいうのって、プロだよなぁ。オカマという立場で俺たちをもてなしてるって言うか。中々独特だけどよ」
「なるほど……」
「でも、ぶっちゃけ別世界だよな! マジファンタジーだよ」
「……」
春秋は何も言えなかった。浅川の無邪気な言葉が、態度が、ぐさぐさと春秋の胸を刺していく。体が小さくなって剣山で身を貫かれたら、こんな痛みなのだろうか。
声を出すことも出来ない。
その様子に浅川が気がついた。
「どうしたんだよ、急に顔色が……」
「あ、いえ、何でも無いです」
「何かあったのかよ。相談に乗るぞ」
その何かの原因は言葉をかけた本人にあるとは、とても言える訳がない。
そんなことをしたら自分の性的指向がバレてしまう。とっさに春秋は言った。
「いや、俺も別世界だなっと思ってしまって。その、例えば隣の山田がそれだったら怖いなぁと」
恐ろしい程にぺらペラと言葉が出る。まるで別の存在に体を乗っ取られたようだ。だが、実際に口を動かしているの春秋自身だ。それが何よりも恥ずかしく、何よりもみっともない。
「確かになぁ、はは、お前も結構言うな」
浅川はにこにこと笑った。普段春秋は意見を言うことが少ない。そんな春秋を見ていたからだろう。腹を少し割ってくれたと思ったに違いない。
「そ、そうですかね。言い過ぎましたか?」
「いや、少しお前を知れた気がするよ。お前、秘密主義って訳じゃ無いけど、ちょっと読めなかったからなぁ」
「はあ……」
そこで急に浅川はスマホを見た。若干顔をしかめる。
「あ、やべ……もう、時間じゃん」
「そうですね……」
そう返答しつつ、春秋の心は拭いきれない絶望で一杯だった。拭いても拭いても、心のよどみが晴れない。
明日は頼政、春秋双方が休日だった。
休日の前夜は二人揃って夜更かしをする。
歌手のコンサートのDVDを見たり、映画を見たり、最近面白かったのは兄弟が二人のんびり暮らす内容の映画だった。
今日も今日とて、顔の濃さが有名な歌手のツアーを見ていた。頼政は目をつむって、穏やかに聞いている。
とてもその様子を見ていると、あの話を聞いたとは思えなかった。
二人暮らしで生活サイクルがバラバラの二人。
頼政は自宅で仕事をしているので、食事を作ってくれることも多かった。
ただあまり得意ではない。努力はしているのだが、切った野菜は大きかったり肉を焦がしたりしていた。
それでも一生懸命に作っている背中を見ているから、文句を言うなんて考えられなかった。
頼政は今日も春秋に食事を作ってくれた。味噌でつけた豚肉を焼いたのと、レタススープ、そして白米。
頼政がよく作るメニューだ。頼政は背中を丸めている。そのくたっとなった背中を見るとよほど疲れているだろう。
彼自身の仕事、聞くだけでも内容的に神経がすり切れそうになる。
「たいしたものでなくて悪いね」
「別にいいよ。大丈夫」
気にしていない。むしろ疲れている中で作ってくれたことに感謝と愛おしみが生まれてくる。
春秋が食事を始めると、頼政は腰を上げて梅酒の様子を見に行った。
「……うん、よくなってるね」
そう言う頼政の顔は優しかった。まるで猫を撫でるように梅酒の入ったボトルを撫でている。
当たり前だが、頼政はいつもと変わらない。それが何より心が痛い。
あの状況はある意味、しょうがなかったと思う。しかしあんなことを口にした自分を、頼政を愛おしむ感情が責め立てる。
己を出したなんて、ちっとも思っていない。そう思われるのは、不本意だ。だけれど、あの時なんと言えばいいのか分からない。
春秋は自己嫌悪でどうかしてしまいそうだった。
もし自分が女を好きだったらこんなことを悩まなかっただろう。もちろん女が好きだからと言って悩まないなんてないことは分かっている。
それでも、自分を必要以上に隠すことをしなくても済むのじゃないかと思った。
そうしたら楽ではないかと幻想してしまう自分がいたのだ。
春秋は思わず口にしていた。
「どうして……」
「ん?」
「どうして、俺、女を好きにならなかったんだろう」
一瞬頼政と目が合った。頼政は一瞬焦点が揺らいだが、すぐにいつもの穏やかな目になる。
頼政は軽妙に言った。
「お、どうしたんだ? 俺に飽きたか?」
春明は肩を怒らせて、頼政を睨んだ。
「なんでそうなるんだよ!」
「おおっと、そんなに怒るなよ。俺だって、一瞬不安になったんだよ。飽きられたのかなって」
「そんなこと」
「なら良かった。それよりも梅酒がいい出来なんだ。後で飲まないか」
頼政の笑みは陽だまりのようだ。まるで悪夢を見た子供の濡れた頬をぬぐうような温もりがある。
不安になったと言ったが、とてもそうは感じられない。
春明は小声で言った。
「……飲むよ」
春秋は梅酒を口にする頼政を見ている。
どうして頼政はこんなに穏やかにしているのだろう。まるで心を取り乱した自分が幼い子供に感じてしまう。
「なんでさぁ。頼政はそうなんだよ」
「え」
春秋は頼政を軽くにらむ。
「なんで、そんなに穏やかなんだよ……俺がこんなに悩んでたってのによ」
頼政は梅酒を飲んでいたのを止める。
頼政は困ったように言った。
「まだ、その話は続いていたの?」
「ちょっと、続いていた。お前、怒らないのか」
「……怒る?」
どうしてと言わんばかりの顔だ。それが余計に焦燥のような感情をかき立てる。
「だって俺、女を好きになれたら良かったって。お前に言った」
「うん、そうだね」
「俺がそう言われたら、結構キツいぞ」
「それは俺も変わらないよ」
「じゃあ」
いつのまにか下を向いていた春秋は食いつくように顔を上げる。頼政はいつになく寂しげな顔をしていた。目を伏せ、唇をわずかにかみしめている。
深くしみこむ傷の痛みに耐えているようだった。
「より、まさ……」
「きっと、春秋に何か理由があったと思ったから平気だったんだ」
「理由……」
「何もなく言ったのかい? それはさすがに」
「ある、あるんだ。すごい昼間のことが気になって」
そこで春秋は自分の感情ばかりが先走りしていたことに気がついた。
自分はただ、あんな言葉を吐きたくて吐いた訳じゃない。
感情が錯綜する内に、何より大事なきっかけを忘れてしまっていた。
春秋は言葉をつっかえつっかえにしながらも、昼間の浅川との話を頼政に伝えた。
頼政は相づちをうちながら、話を聞く。それから深く深く息を吐いた。
「やっぱり、何かあったんだ」
「ごめん、これをちゃんと伝えるべきだった」
「ほんとに、その通りだよ」
頼政の表情は晴れやかになる。肩の荷がおりたような印象すら受けた。
それに気づき、春秋は表情には出さなかったが、心にどんと衝撃を受けた。
頼政も隠していただけで、内心はとてつもなく不安だったのだろう。それを与えてしまったのは自分だ。
申し訳なさで心が一杯だったが、それを出せば余計話をこじらせてしまう。
春秋は頼政の肩におずおずと手を乗せた。
「お前って良い奴だよ。よく、何かあったと思えたな」
頼政はその手を取って、そのまま春秋を抱き寄せる。普段ならその突然さに驚くだろうが、今はただなされるままだ。
「梅酒なんだけど」
「梅酒」
「いつから漬けてたか、覚えてる?」
それはすぐに思い出せた。ちょうど梅が咲く季節、引っ越してきた春秋と頼政の家の近くには梅の木があった。
それを見て頼政は手を打ちながら「漬けるか」と言いだしたのだ。
「えっと、ここに越してすぐだから」
「そう、もう一年なんだ」
一年……急にその言葉が胸に迫る。それなりに時間が経っていることは自覚していたが、一年だとは。
頼政の温もりを感じながら、春秋は言った。
「お前と暮らし始めて、もう、なのか」
「そうだね」
「なんか、気恥ずかし。見通されてたんだな」
「まあ……今回はね。でも見通せないことも多いよ」
「例えば?」
頼政はぽんぽんと春秋の頭を撫でた。
「さっき、話をぶり返してくるとは思わなかった、俺も見込みが甘かったな」
「多分、俺の中で腑に落ちなかったんだと思う」
「そうか」
「うん……」
頼政は小首を傾げた。
「一年暮らしてもまだまだだなぁ、もっと長くいないとね」
そう言う頼政は冗談めかした表情だ。頼政が何を言わんとしているのかが分かり。
春秋も照れくさそうな表情を隠しながら、頷いた。
「そうだな、もっと、長くいないと」
頼政もその通りだと言わんばかりに相づちを打つ。
ふと春秋は頼政が飲んでいたカップを見る。するとそこにあった今日の分の梅酒がなくなっていた。
自分の分はとうに飲みきってしまっていた。しかしイライラしながら飲んでいたので、ちゃんと味わえてはいない。
「もう、ないのか」
「追加はないよ。あれも長く漬けていた方が美味しくなる」
「そうだな……あーあ、ちゃんと味わえば良かった」
春秋は残念だと肩を落とすと、ふっと三日月のように頼政が目を細めた。
「じゃあ、せめて味だけ感じてみる?」
「味だけ?」
「……そう」
頼政は春秋に顔を寄せて、唇を重ねる。一瞬身構えたが、すぐに体の力は抜けた。アルコールと甘い梅の香り。やがてそれが熱を伴って、春秋の咥内をまさぐっていく。
「より、まさっ……」
春秋は、頼政の胸元をぎゅっと掴んだ。頭が蕩けそうになる。
明日は休日、外に出るのが億劫な程に冷え込むという。二人の時間は始まったばかりだ。
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