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君の手をとるその日のために(第6話)~それは儚く消えゆくモノ~

 この世には侵してはいけないことがあると思っていた。
けして暁善の国では大統領に逆らってはいけないし、治安警察は絶対の正義だから立ち向かってはいけないし、敵と恋に落ちていいのは、禁忌の物語だけだ。
 それなのに、自分は……自分は今、どんな感情を抱えている?

 派手な水音が響く。しとしとと昨日よりも弱くなる雨の中で その音はひどく乱暴に聞こえた。秋山は水の張った桶で顔を洗っていた、冷たい水が頬を叩く。
 真夜中、とっくに凛子は寝ているだろう。秋山は濡れた顔を拭き取らず、ため息をついた。顔から滑り落ちた水滴が、桶に残った水に落ち、高い音がした。
 手ぬぐいで水気を拭い取る。顔はスッキリしたが、心はまったくの曇天にもほどがある。眠気もやってこない。どうしてわざわざ眠気を殺すような真似をしているのか。合理性がないにもほどがある……しかし、それをせざる得なかったのだ。
 この心の不安や動揺を、自分でどうにか制御させるためには……今の秋山では顔を洗うことしか思いつかなかったのだ。
 恋をするなんて思っていなかったのだ。確かに自分の側にいる人なんてろくにいなかったのは事実だったが、それでもいつか、平穏な恋をすると思った。だけど現実は、そんな秋山の心境を知らないと言わんばかりの運命を持ってきた。
 凛子という存在を。どうして彼女だったんだ。彼女が普通の、どこにでもいる人であれば、こんなことで悩まなかったのに。どうしてなのだ。だけど、凛子が逮捕されて、秋山と雨の山中に閉じ込められなければ、恋に落ちなかった。神が居るのならば、自分たちは舞台の上に招かれたようだ。偶然からはじまった、運命のような、恋に。秋山は自分を呪いたくなった。治安警察でなければこんなことにならなかったのにと思ってしまって、自分に対して衝撃を受けたのだ。何を言っているのだ、治安警察はこれまでの秋山の人生そのものだった。それが数日で覆ろうとなんてあってはいけない。あってはいけないのだ!
 だけど凛子の顔が自分の脳から剥がれない。彼女の笑みが自分のプライドをどろどろと溶かしていく。どうしたらいいのだ。この胸が潰されそうな、痛みは……。秋山は荒く、息をついた。そして気がつく。雨の勢いは弱まり雨の終わりが近づいていることを。秋山はどうしていいか分からずぎゅっと目を瞑るしかなかった。こうなることが、もし必然だとしたら、神はどれだけ残酷なのだろうか。
「俺は、一体っ……」
 秋山は、かすれた声で呻いた。その声は夜の闇に、静かに沈んだ。

 女は布団からゆっくりと起き上がった。
誰かの悲痛な、棘が刺さって上手く声が出せないような声が聞こえた気がした。
 これはいったい、何の声だったのだろう。覚醒しきれないぼんやりとした頭で考える。ああ、そういえばと女は立ち上がる。寝間着代わりの浴衣の乱れを直しながらと棚を見る。そこには薄い紙で包んだ、たくさんの原稿が置かれていた。本になることになれなかった、自分の書いたモノだ。
 このままだと、治安警察に没収されて、禁書庫に仕舞われたり、燃やされたりしてしまうだろう。せめて一冊だけでも残せないものか……時代のせいで儚く消えゆくモノだとしても、これは凛子の生きた証しなのだ。
「……収監されたら、もう二度と筆は……」
 ぞくりとした。覚悟は決めていたつもりだった。今だって決めている。けれども、もう今以上に、考え、自由に表現することが出来なかったら……自分は自分でいられるのだろうか。この国は、右にならえば右で、左を向くことの自由はないのだから。
「ああ……」
 酒が飲みたくなった。締め切った部屋を抜けて、縁側で雨の音を聞いて。黄色の明かりを側において、原稿を読み返そうか。今日は何だか、恋を読みたい。

……これは、もしもの話だ。

 もしこの世界に自由があったのなら。

 俺は何も失わなかっただろう。

 もしこの世界に自由があったのなら。

 私はずっと紙をめくりつづけただろう。 

 そうしたら俺は、彼女と。

 そうしたら私は、彼と。

 違った形で、出会えたのだろうか。

 雨に煙る深い夜。
 男は驚いたように立ち止まり、女は口につけていたおちょこを離した。

「凛子さん……」

「秋山殿……」

 雨のカーテンは世界から二人を隠していく。


「一人酒ですか、ここの家、酒があったんだな」
 秋山は凛子に誘われ、凛子の隣に座る。凛子はゆっくりと頷いた。
「ええ、支援者からのもらい物が少しね。こういう日は、ちょっと飲みたくなるの」
「こういう日?」
「そう、雨が降りつづいてると、ちょっと気が滅入っちゃうでしょ」
「ああ……」
 凛子は目を細めて、先の成り行きをただ見守るような、そんな優しい顔で雨を見た。
「どうしたんです、そんな顔をして」
「そんな顔?」
「雨を、優しく見てました……」
「ああ、そうね」
 凛子は苦笑した。
「そうね……少し感謝してたの雨に」
「え……」
 意味が分からなかった、どうして雨に感謝しているのだろう。確かにこの雨で凛子は逮捕収監まで時間がかかっている。けれどもそれはあくまで、たったのと言えるくらいの時間に過ぎないのだ。
「なんて顔してるのよ。たったの、そう、たったの数日よ。でも腹が据われた気がする」
「腹が?」
「ええ……この後、私が私でなくなったとしても……私のことを覚えてくれる人がいるもの。腹も据わるわ」
「それって」
「もちろん」
 凛子は秋山の胸を軽くつついた。
「姉と貴方のお兄さんと、私を知って覚えているあなたが」
 胸がつかれるような思いだった。凛子は覚悟を決めている。自分の命が、もしくは心が終わるとしても、この人生を覚えてくれている人がいるのならばそれでいいと……。
 凛子は手に持っていた紙の包みを渡してきた。
「これは……?」
「私の書いたモノよ。本になることのなかった原稿」
「え……」
「これを持っていてくれない? あなたになら託したいの」
「ぁ……」
 秋山は目を見開いた。
「あなたにだったら、私の……」
 秋山は凛子の言葉を遮るように、声を張り上げた。
「駄目だ! 駄目だ凛子さんっ」
「秋山殿……?」
「そんなことを言わないでくれ……俺を、置いてくな……生きてくれ!」
「だけどこの雨が上がれば私は……」
「俺が、俺がなんとかする。だから、貴方には生きていてほしいんだ」
 凛子の意志の強そうな瞳が、揺らぐ。
「どうして、あなたはそこまで……」
 秋山は胸にこみ上げてくる感情を抑えきれず、衝動のまま凛子を抱きしめた。凛子は秋山の行動の荒々しさに目を見開く。
 秋山はつっかえながらも言葉を吐いた。
「好き、なんだ……凛子さんが。俺は、凛子さんの敵なのに、好き、なんだよ……」
 凛子の力のこもっていた体から、すとんと力が抜けた。
「私が、好き……? あなた何を言って……」
 秋山は食い入るように呆然とする凛子の瞳を見た。その目力の強さに、凛子は秋山の心を感じていく。
「俺だって何を言ってるんだと分かってる! ……でも、それでも、自分では止められないんだ。好きという感情がっ」
 ああ、そうだ。この感情を抱かなかったらどれだけ、自分は楽だったろう。
 けれども秋山は、恋を抱いてしまったのだ。
「……」
 凛子は困ったように笑った。
「ああ……これはどうしたらいいんでしょうね……」
 凛子の声が鈴のように震えた。
「ああ、本当にどうしたらいいんだろう」
 秋山は頭を傾げた。
「凛子、さん?」
 凛子は涙が今にこぼれそうな眦をしながら笑った。
「私、こんなこと思っちゃいけないって分かっているのに……それなのにね、嬉しいの……嬉しいのよ」
「それは……」
 秋山は凛子の真意を確認しようと体を離し、凛子の様子を見ようとする。
 凛子は秋山の手を取り、自分の頬に当てる。
「人生の終わりに、こんな幸せがあっていいのかな」
 ガラスが喉に刺さるようだ。彼女はとても幸せそうなのに、その幸せはすぐに終わるとも思っていると気がついてしまったからだ。そんなことはないんだ。そんなことは……けれど今、その現実をどう覆せば良いのか、秋山には分からない。
 それでも今は凛子の幸せそうな笑いを穢したくなくて、秋山は笑った。
 へたくそな笑いだと思った。
「凛子さん、俺は凛子さんが好きだ」
 凛子は小さく頷いた。
「私も……あなたが好きよ……こんな運命だとしてもあなたと出会えて、良かった」
「凛子さん……」
 苦いものを舐めたような苦渋を浮かべた秋山に、凛子は「こらっ」と少し怒った。
「そんな顔をしないで、私は今ね。とっても幸せなのよ」
「……俺も、幸せだけど」
「はーい、その「けど」もない。ねぇ……それより、お願いがあるの」
 凛子は秋山の袖をくいくと引っ張った。
「な、なんだよ……」
「また抱きしめてくれない?」
「ああ……いいよ」
 秋山は凛子をぎゅっと抱きしめた、体がぶつかり、凛子を強く感じる。このまま溶け合ってしまえばどれだけ幸せだろうか。意志の強い瞳も、その柔らかそうな唇も、腕も足も何もかも、全てが欲しい。
「凛子さん……」
「どうしたの?」
「俺、凛子さんと口づけをしたい」
 秋山は凛子と額をくっつけた。
「しても、いい?」
 凛子は苦笑した、ほんのりと頬を赤らめて、囁いた。
「そんな聞き方、ずるい」
 秋山と凛子はお互いを見遣り、笑い合った。

 予想通りと言えば良いのか、それともそれ以上の感触だったと言えば良いのか。溶けていく、心の澱も青いプライドも。口づけを交わす度に、細切れになる息になる程に。
「凛子さんっ……俺は……」
 秋山は、凛子の唇に自分の唇を荒々しく重ねる。
 
 ああ、本当に好きだ。このまま、どこまでも彼女と堕ちていっても構わない。

 だけど、どんなことがあっても。

 彼女には笑っていて欲しい。

 二人は愛し合う、そんな中、雨はひっそりと消えるように止んでいった。

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佐和島ゆら
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