しかめ面叔父さんのラブレター(小説版)
苦虫をかみつぶしたようなしかめ面。楽しげに周囲は食べているのに、独りでもくもくとパフェを食べるスーツの壮年の男は、あまりにその場で異質だった。
その店の店員でも風変わりなお客だと言う。私は店員として、男の前に立つ。
「おじさん……だよね?」
男は、あんぐりと口を開けた。
「沙由理っ……」
・
普段は神保町のチェーンの喫茶店でバイトをしている。だけどその店は本店になのに、暇になりやすく、私は近隣の店にかり出されてる。大きなタワーの中にある喫茶「キャンバス池袋店」に私はヘルプに出ていた。
サラリーマンから友達らしき、女性同士の連れ合い。子供の手を引く親子連れ。神保町の客は年齢層が高めだったけど、こっちの客層はとても広い。若い人が多いような気がする。仕事は本店と変わらないけど、その場の流儀というものがある、慣れているようで、どこかおぼつかない感覚を受ける。
――ああ、これでも時給があがってるからいいか。
どこかで妥協点を見つけながら、お客さんにオムライスを提供する。ホワイトソースのかかった、人気のオムライスだ。可愛い格好の女の子のお客さんは、池袋限定メニューだったオムライスとの違いを聞いてきた。
いやいや、そんなの知らないよ。私は神保町の人間だよ。
かといって、そんな事情はお客は知らない。あったり前だよね。私は愛想笑いを浮かべながら。私に色々と仕事について説明してくれた、池袋店のパートリーダー、安西さんを呼んだ。
「お客様、事情に詳しいのを呼んだので、その者が説明いたします」
「あら、そうなの? わかったわ」
何か食い下がってきたらどうしようかと一瞬背中に冷たい汗をかいたが、お客さんはあっさりと引き下がった。安西さんはちょうどよく登場して、私に提供をするように伝えて。お客さんに説明する。
「ええ、そうです。ウチの料理……季節ごとにリニューアルが多くて」
まとめられた後ろ髪をちらりと見ながら、私はほっと胸をなで下ろした。
昼の時間がすぎると、店は一段と落ち着いてきた。平日は昼食の時間がとにかく忙しいと安西さんは話してくれた。
休憩というわけではないが、店が落ち着いたのを見計らって、新しいドリンクを試し飲みすることになる。バラの蜜を使ったソフトドリンクということで飲んでみると、飲むと甘い香りが口いっぱいにひろがった。思わずホッとしてしまう味に息をついていると、安西さんが声をかけた。
「慣れないところで大変でしょ、大丈夫? 蓮沼さん」
気をかけてくれる安西さんに申し訳がたたなくて、私は愛想笑いを浮かべる。大げさに手を横に振る。
「いえー。一応業務は元の店と同じなんで」
安西さんは小首を傾げる。その仕草がそれなりの年齢の割に可愛らしく感じた。愛らしさを伴う仕草は出来るのはすごいと思う。
「でも細かな違いはあるわよね。……ウチって、ヘルプを使うことが多いというか、人を簡単に融通にするから……」
そう、どこもかしこもかもしれないけど。ウチの店も割と理不尽だ。毎日働いていて、どこで妥協点を見つければ良いのだろうと思う。それでもアレですよ、唇を気づかないまま噛みしめていくのです。
「まあ、しょうがないですよ……色々」
苦笑いを浮かべてしまう。そう考えても仕方ない領域なのだ。私たちにとって大事なのは日々の業務をこなして、給料をもらうことなのだから。
私の表情で何かを感じ取ったのか、安西さんも薄っぺらい笑いを浮かべた。
「そうねぇ、愚痴ってもしょうがないけど……そうだ、もう店が落ち着くし蓮沼さんにも休憩を……」
入り口のベルが鳴った。お客さんが入ってきたらしい。
安西さんは入り口を一目見て、唇の端をつり上げた。
「あの、お客さんね」
何か含みを感じさせる言葉。気にならないわけがなく、私は安西さんの背中越しから入り口を見た。すると年期の入ってるけど上質なスーツを着た、壮年の男が案内を受けている。店員の丁寧な接客を受けても表情が一つも変わらないどころか、眉間をよせてしかめ面をしている。めっちゃ傍から見ても態度が悪そうに見える。
安西さんも私が男に視線を送っていると気がつき、こそこそと耳打ちした。
「あの人、常連なんだけど……いつもああなのよねぇ」
そして困った客よねぇと言わんばかりの表情で私を見るのだが、顔を見た途端目を丸くした。なんでそんな顔をしているのと言われている気分だった。でも私にとってそれは全然たいしたことじゃなくて。思わず呟いた。
「嘘でしょ」
最後に見たのはいつだったろう。そうだ、あの葬儀の時だ。
あの人は、喪主をしかめ面でつとめていて、私は参列者席で、それを見ていた。雨が冷たく降り注ぐ、曇天日和だった。
あまりにこの店に不釣り合いな男。私は頭にはてなマークを乱舞させた。
沙由理「お、叔父さん?」
父の兄である叔父、蓮沼公人がそこにいた。
・
叔父さんは顔を上げずに注文をした。何の感情がこもってないような、事務的な口調で。
「コーヒーと……イチゴ満喫パフェ」
わぉ。あの特大でイチゴが暴力的にあるあのパフェか。
私は叔父さんの注文を復唱した。
「はい。かしこまりました、コーヒーとイチゴ満喫パフェですね叔父さん」
最後の単語に明らかに引っかかった様子で、叔父さんは顔を上げる。そして私を見て、一瞬お地蔵さんみたいに固まった。それからまじまじと凝視する。
わずかに「あっ」と声が漏れた。
なんだろう、あまりに分かりやすい感情の揺れにおかしくなる。私はわざと慇懃無礼に挨拶した。
「お久しぶりです、叔父さん……あの、甘党でしたっけ?」
「沙由理……どうしてここに!」
言葉がそれぞれ空気銃のように放たれる。私は声を抑えめにしていたけど、叔父さんの言葉は勢いよく壁に伝わり、周囲に拡散した。つまりは大声である。まわりで食事を楽しんでいた人はびっくりしたように私と叔父さんを見る。叔父さんは状況をなんとか収めようとしたのか、やれやれと言わんばかりに咳払いをした。それで状況が一分前と逆戻り。喧噪に守られて、また私と叔父さんが話しても違和感がない状況になった。
私はいつものようにへらへらと笑った。
「ごめんごめん、別に驚かせるつもりはなかったの。ただ、叔母さんだったら分かるけど、叔父さんがここにいるのがめずらしくて」
叔父さんは一瞬言葉の間を開けた。
「アイツは食べ歩きが趣味だったからな……」
私は在りし日の叔母さんの姿を思い出して、うんうんと頷く。
「そうそう。だけどさ、こんなところで叔父さんに会うなんてね、最近父さんにも、叔父さん会わなかったし、結構心配してたよ」
「……余計な心配を」
ぼそりと言葉を吐く叔父さんに私は気づかれないように肩をすくめた。
相変わらずだなぁと思う。叔父さんは人として悪くないのだが、正直とっつきづらいと言われてしまうほどに気難しい。私は叔父夫婦に可愛がられていたけど、子供の頃は叔父が少し怖かった。しかめ面が多かったからだ、でも時折叔母さんに優しい顔をしていたし、私が何をしても怒ることがなかったから、この人、すごく分かりづらいんだなと理解していた。
私は話の方向性を変えようと、目線をあげた。
「それにしても、なんでこんな可愛い店でデザートを食べてるの?」
「いいだろ……どこで何を食べたって」
明らかに触れられたくない話題のようだ。それには同意する、同意するのだが。思わず真顔になってしまう。
叔父さんは私の様子に気づかないみたいで、言葉を投げるようにぶつけてきた。
「とにかく仕事に戻りなさい。客一人にかまけてる暇はないだろう」
「はあい」
叔父さんの言うことは何一つ間違っていない。何一つ間違っていないのだけど、何一つ私の心に響かない。ただ私から離れたいという、邪険ではないが敬遠の意思を感じ取ったのだ。とはいえ、私はまだ仕事は終わっていない。しょうがなく叔父さんから離れることにした。とことこと歩いて、叔父さんをちらりと見る。するとなんともいえない顔をしてため息をつく。落ち着かない様子でテーブルを指先で叩いていた。これから来るメニューが楽しみと言った様子ではない気がする。私は分からず、軽く頭を傾げた。
「叔父さん……?」
・
休憩時間に入った。安西さんと一緒に休憩にはいったので、まかないのオムライスを一緒に食べた。ビーフシチューがかかったオムライスで、とても豪華な味がした。安西さんは私の話に目を丸くした。
「え、あのお客さん。蓮沼さんの叔父さんなの?」
「そうなんですよ。びっくりしました」
至極その通りだろうと思ったのか、安西さんは深く頷いた。それからオムライスを食べながら、叔父さんの様子を語る。
「なんか毎度ね、すごい顔で食べてるから、気になってたのよね」
安西さんの口ぶりから、しかめ面で食事をしたりデザートを食べるおじさんの顔がとてもリアルに浮かんだ……。
私は相づちを打ちつつ、小さく笑う。
「あの人甘党じゃないですからね。よく食べるなと思います」
安西さんは軽く目を見張った。
「そうなんだ。まぁ、確かにおいしそうとは言えない食べ方かも……? ただ普通好きで食べると思うんだけどね」
私は小さく頷いた。
「そうですよね……一体いつからなんですか? 来るようになったの」
安西さんはカレンダーをじっと見て、あぁと言わんばかりに口を開けた。
「そう、三ヶ月前よ。大雪の日だったからよく覚えてるわ」
安西さんの話によると、叔父さんは都内でも雪が積もり、交通網がほとんど動かなくなった日に、キャンバスへ訪れたのだという。お客がろくに来なくて、暇だわと店員同士の雑談しているところで、頭に雪を乗せて、コートもしっとりと濡れた叔父さんが来たのだという。そして応対した店員に対してしかめ面で。
「雪だるまチーズケーキはありますか」と聞いてきたのだという。
しみじみと安西さんは言った。
「ちょっと驚いたなぁ。雪だるまチーズケーキって、去年のものだったから……よく知ってるもんだと思ったよ」
私は素直な疑問をぶつけた。
「ちなみに叔父さんは、去年は来たんですか?」
安西さんは頭を横に振る。
「それはないと思う。あんなに毎度しかめ面してるお客さんは覚えてるわ」
「そう……ですよね」
「そうそう、でも雪だるまチーズケーキはもうなかったから、今年のカマクラチーズケーキをおすすめしたわ」
「叔父さんは食べたんですか」
「そうね、すごい顔をしてたけど」
苦笑いをする安西さんに私はなんとも言えない気持ちになった。三ヶ月前のことを思い出したからかもしれない。同時に叔父さんにも疑念が湧き、唇をとがらせた。安西さんは不思議そうな顔をする。
「どうしたの、蓮沼さん」
「いや、叔父さん……一年前のデザートを食べにきたのに、今年の新作で満足しちゃったんだ」
ああ、と安西さんは頷いた。
「そうね、あのお客さん、どこかで情報を仕入れたのか、ウチのことはよく知っていたけど……どれも微妙に古いのよ」
「そう、なんですか」
「まあ、変な人ってことよね」
何の気もなしのような、軽い言葉。それが胸中にぽんと投げ込まれたから、ちょっと動揺した。でも他人の前で不用意に動揺も出来ない。変な違和感をもたれても、面倒だった。私は何も言わず、曖昧に笑うことにした。すっかり意識は安西さんにも仕事にも向かず、叔父さんしか見えてなかった。
・
窓の外を見ると、何だか雨が振りそうなほどの曇天だった。私は一年前のことを思い出していた。
しゃくしゃくと梨を食べている。旬の季節から圧倒的に外れているし、あまみもそれほどないのだが、食感が好きで私はカットされた梨を食べていた。その様子を病室のベットにいる叔母さんが見ている。
叔母さんは申し訳なさそうに眉間を寄せた。
「ごめんなさいねぇ、せっかく持ってきてくれたのに。食べられなくて」
叔母さんは一週間前に倒れ、緊急入院していた。検査結果を待たずしても分かるほどに、良くない病気らしい。たった一週間入院しているだけなのに、叔母さんの顔色は以前よりやつれたように見えた。
私はどんな顔をすればいいのか分からず、伺うように叔母さんを見た。
「……食事制限、そんなにきついんですか」
叔母さんは私の言葉に、鷹揚に頷いた。それから参っちゃうわぁと言わんばかりの苦笑をもらすのだった
「そうなのよぉ、今すごく体が不安定なんですって。食事制限して少しでも安定を目指すとは言ってたかな……でもね、だからって、甘いもの一つも食べられないって、きついわよねぇ」
やつれているけど、叔母さんの精神面はいつも変わらなかった。この間行ったスーパーで牛乳の安売りを止めちゃったのよ、まいったわねぇと言い出さんばかりの、のんきさがあった。それはもしかしたら周囲に気を遣った、叔母さんの優しさなのかも知れない。だけど私にはその明るさがあまりに明るかった。強い光に人は耐えられない。痛くなって、耐えられない。私が下を向いていた。直視出来なかった。それから棚の上に小さなオルゴールがあることに気がついた。
あんなの、この間来たときあったのだろうか。いやいやそんなことは大事じゃない。私は唇をとがらせて言った。
「……叔父さん、忙しいんですね。何回か来てるけど、全然見たことがない」
お昼下がりの病院はあったかい空気で満ちていて、油断すれば寝てしまいたくなるような穏やかさと静けさがある。おじさんはこの病院とはあまりに違う会社の中で働いているのだろう。結構偉い立場だと聞いたことがある。
パソコンに向かい、部下から報告を受けたり、指示をとばしたりして、いつものように働いているのだろうか。奥さんは病院に預けているから安心だと思ったりするのだろうか。
なんだろうな、気分が重くなっちゃうな。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、叔母さんは言った。
「そうねぇ、あの人忙しいから」
あっけらかんとした口調が私の腹の底を、つまりは堪忍袋を刺激する。
なんでそんなに何でもなさそうなのか? 私には理解が及ばない。ムキになっている自分を感じながら、私は叔母さんを見た。
「でも、お見舞い一つもしないなんて、ひどいと思う」
「ああ、そうねぇ……やっぱり忙しいのよねあの人は」
「叔母さん、よくそれですむなぁ。私には無理だわ……」
「……長い付き合いだしねぇ。ああ、もう三十年なのね……早かったわ、ふふ」
私は思わず腕を組んでしまった。ぼやくように言う。
「叔父さんは、そのことを覚えているのかなぁ」
「あら、意外と忘れないのよ。そういうとこ」
叔母さんは目をキラキラさせながら、棚の植えに置かれたオルゴールを見る。
私も叔母さんの視線を追いかけた。
「これね、私の好きな曲なのよ」
叔母さんがオルゴールのネジを巻いた。動力を与えられ、ゆっくりとオルゴールは動き出す、聞こえてくるのは聞き慣れたメロディだった。私は小さい頃は叔父夫婦に預けられることがあったのだけど、居間で遊んでいると、このメロディがラジカセから流れることがあったのだ。
メロディに身を任せるように聞いていると、叔母さんはぽつりと呟いた。
「ただ、ちょっともろいのよね……それだけが気がかりだわ」
・
叔母さんは笑う人、そんなイメージがずっとついていた。今も笑っている。
遺影の中でとびきりの笑顔を見せている。
叔母さんは冬の寒い日に亡くなった。新年を迎えたばかりの時に、そっと息を引き取った。葬儀の日は厚着を出来るだけしたけど、それでも寒風が吹いていた。叔父さんは喪主として親族に挨拶をしまわっていた。しかめ面とまでは言わないけど、表情は蝋人形のように固かった。私は参列者席から叔父さんの様子を見ていた。
……神妙な場でもトイレには行きたくなる。
私は断りを入れてトイレに行く。用をすませて、濡れた手をハンカチでぬぐっていると、親族の声が聞こえてきた。どうも入り口あたりで話しているようだ。
「かわいそうにねぇ。まだ五十代だったんでしょ」
「子供もいないし、この後公人さんどうするのかしら」
何だろう、純粋な心配にも聞こえるし、今この場で話題にするほどの性急なことだろうかと思う。正直に言うと不快だった。そりゃこれからのことは考えないといけないだろう。叔父さんはこれから一人なのだから。だけどソレを今口にするべきことなのだろうか? こそこそと話していたとしても私は、許せなかった。だけど強く言及するのも、よくないことは分かってる。妥協案として、私は咳払いした。
トイレの入り口にいても邪魔ですよという感じで。
咳払いが聞こえ、なんとも言えない顔をしている私を見た親族達は、愛想笑いをしながら離れていった。どこかでまた話しているのかもしれないが、ひとまずは話を終わらすことが出来た。
私は拳を握って、誰にも気づかれないように唇を噛みしめた。
「何なんだろ……ああいうの」
あんなことが平然と出来るようになるのが、大人なのだろうか。
うんざりするような思いが胸をこみ上げた。
叔母さんは葬儀を終えて、火葬場へ持って行かれた。
持って行かれたという言葉は正確ではないと思うけど、もう死んでしまって意思を示せない叔母さんの体の動作を、どう表現すればいいのか分からなかった。
黒い扉の奥へと叔母さんが入った棺は入れられる。火葬は静かに始まった。
朝は寒風が吹くだけだったけど、時間が経つにつれ、天候は悪化していった。
冷たい雨がしとしとと降っている。一月の雨粒は大きく感じた。気のせいだろう、多分。
私は親族共々、畳の部屋で火葬を終えるのを待っていた。スマホでSNSを見ているが、まるで身が入らない。ぼんやりと終わるのを待つ。
叔父さんは少し親族達から離れ、窓に近づき、外の雨を見ていた。そこにいても冷えるばかりの場所だった。親族が声をかけた。
「公人さん、そこにいたら風邪をひくわよ」
「ああ、いいんです……少しここにいたいんです」
「あら、そう?」
「はい……」
いい年をした大人の意思だ。そこがいいというなら、止めることが出来ないと分かっていたのか、親族はあっさりと引き下がった。私は叔父さんの様子が気になって、親族とは入れ違いに近づいた。
雨は落ち着く様子がなかった。ずっと降り続けている。落ち着かないなと感じて、私はわざとおどけた雰囲気で言った。
「叔母さんの好きな曲を思い出すね、こんな日は」
「……美都子の?」
叔父さんの言葉に、私は頷いた。春に叔母さんの入院先で聞いた、オルゴールのメロディを口にする。小さく歌詞を読み上げた。
「……暗く冷たい雨夜でも、いつか晴れるなら、どうか」
叔父さんが言葉を続けた。
「どうか……その時は、一緒に虹を見よう」
私は叔父さんが続けて言うと思ってなかったから、驚きながらも感心した。
叔父さんの顔を見る。すごいねと言おうと思った。だけど、そんな言葉、口に出せなかった。だってと私は息を飲む。
叔父さんは泣いていた。頬に涙の筋が出来ていた。叔父さんは自分の顔を拭わず、呟いた。
「雨……降り止まないな」
「うん……」
それ以上の言葉が出なかった。窓を、地面を、叩く雨の音が、一段と強くなった。
・
叔父さんの帰宅は意外と遅かった。どこに行っていたのだろう。結構待ちくたびれたし、春の空気といえど冷えてきたんだよと言いたくなるくらいだ。
叔父さんは家の前で待機している私に驚いたように見た。
「沙由理」
どこか咎めるような響きのある呼びかけだった。私は叔父さんが続けて言葉を吐かせないように、ぶっきらぼうに言った。
「おじさん、庭の草ぼーぼーだよ? ちょっと何とかした方がいいんじゃない?」
私の言葉は間違いではなかった。草抜きがちゃんとされていたはずの、叔父さんちの庭は、虫がぴょんぴょんと跳ねそうな程に草が生えていた。叔母さんが手入れしていた庭の姿は、かけらもない。
叔父さんは私の射貫くような視線から目をそらす。
苦々しさを含んだ声で言った。
「そんなことを言うためにわざわざ家に来たのか」
そんな訳がない。私は頭をゆっくりと横に振った。私は叔父さんと話したかっただけだ。嫌みの応酬をするために来たわけじゃない。
「そんな、まさか」
「なら、なんなんだ」
叔父さんはもどかしそうに言う。話を進めるべきか。私はさっき掴んだ情報を開示した。
「あのさあ、叔父さん……会社、辞めたんだね」
叔父さんは唖然とした。
「なんで」
言外で私がそんな情報を掴んでいるはずがないという思考が、ありありと伝わってきた。私だって叔父さんと会わなければ、知らなかったと思う。私はちょっぴり申し訳なくなり、舌を出した。
「ああ、本当なんだね。変だと思ったんだ。昼間の遅くだよ……そんな時に悠々とパフェを食べられる仕事じゃないよねって」
父親に今日会ったことを伝え、叔父の近況を問い詰めた。すると父親はしぶしぶと言った様子だったが、教えてくれたのだ。
「それで事情を、お父さんから聞いたよ。フリーでは一応活動してるみたいだけど」
叔父さんは私と視線を合わせようとしない。まるで場が終わるのが、時間が行き過ぎるのを待っているかのように見えた。私は前のめりになって言った。
「叔父さんは、一体何をしているの? 何を考えてるの」
「お前には関係ない」
「関係ないって……そんなことを聞いたら、叔母さん悲しむよ」
あっさりとした拒絶の言葉に私は顔を歪めた。くしゃくしゃな紙のようだ。
叔父さんと叔母さんには子供がいなかった。その代わり、姪の私を猫かわいがりした。特に叔母さんは私を親族と言うより家族の一員のように扱って。
「沙由理ちゃんがいれば、何も要らないわ」
そんな言葉をかけて、私の頭を撫でていた。私は撫でられたのが嬉しかったけど、それ以上に叔母さんが嬉しそうだなと思った。その叔母さんが大事にしてた人、私にとっても大事な叔父さんに、何かがあるなら、踏み込まずにいられなかったのだ。
叔父さんは苦しそうな表情で呟いた。
「美都子か……」
私は自分の考えていたことを、叔父さんに向かって伝えた。拳を胸元でぎゅっと握りしめながら。
「叔父さんがどうしてキャンバスに来たのか、考えてみたの。叔母さん、食べ歩きが好きで、入院するまでずっとやってた……私、見たことがあるの。叔母さん、おいしかった店を記録してたんだよね。もしかして叔父さん……」
叔父さんはやれやれと深く息をついた。
「そうだな、ああそうだよ。お前の考えているとおりだ。なんというかあいつは……本当に食べることが好きだった。それこそ入院しても、食べ歩きをしたいと言い出すくらいだったな」
私はしゅんと頭を下げた。
「そんな叔母さんが食べられるなくなってしまうのは、見てて……辛かったよ」
叔父さんは私の言葉に何も言わず、家の入り口を見た。
「入りなさい」
唐突な言葉に跳ねるように頭をあげる。
私の困惑をよそに、叔父さんは今までに見たことがないほどの寂しげな笑みを浮かべた。
「ここでしゃべっていてもしょうがない話だろう……あまりかまえないが、中の方がまだマシだ」
私はその言葉に頷くしかなかった。ひさしぶりの叔父さんの家だ。正直緊張を覚えた。別に何があるというわけでもないのに。靴を脱いで、室内を見た時、目を見張った。とても綺麗だったのだ。細かく掃除機がかけられているのだろうか、塵やほこり一つ見えない。叔母さんは庭造りに情熱を傾けていたけど、部屋の掃除には興味がないのかというくらいに苦手だった。掃除に対する苦手がすごかったのだ。雑然としている記憶の室内は、そこにはもうなかった。
私は感心と寂しさが混ざった気持ちになった。
「すごい綺麗だね」
「そうだな……つい、掃除をしてしまった」
「何だか、別の家に来たみたい」
叔父さんは一瞬立ち止まった。皮肉そうな笑みを浮かべる。
「分かる気はするな」
「叔父さん?」
叔父さんはどうしてそんな顔をするのだろう。叔母の生活の癖がなくなった家。変貌していく家。それに対して嗤いたくなったのだろうか。
叔父はソファに私を座らせ、本棚から何冊ものノートを取り出した。十冊以上は出したようだ。どのノートにも表紙がついており、そこには西暦と共に、食べ歩きレポと書いてあった。ばらばらに置くことが耐えられなかったのだろう、叔父さんはノートを積み上げた。
「このノート、こんなにあるんだ……」
「そうだ……こんな記録をつけているなんて知らなかったよ。死ぬ前だ、教えてくれたのは」
叔父さんに対して叔母さんは、痩せ細った体で、咳き込むのが収まった時を見計らって言ったのだという。
「そう、私の本棚の上にね……そういうノートがあるの。あ、おどろいた? それをね……」
叔父さんはなんだかやりきれなさそうに言った。
「何なんだろうな、是非とも見てくれって、茶目っ気出しながら言うんだ」
私は叔父さんの言葉を静かに聞きながら、ノートを手に取り中身を見た。
詳細なレポートが何ページにもわたって書かれていた。これを手書きで書くなんて、すごい。手作りのガイドブックといってもいいものだ。
驚愕を覚えずにいられない私に対して、叔父さんは目を細めた。
「あいつ……独りで食べるのがいやだったんだ、本当は……」
叔父さんの言葉に私は目を丸くした。
「そうなの?」
叔父さんは私に対して、深く頷いた。
「若い頃、まだそれほど忙しくなかった頃に聞いたことがある。……あいつ、独りで店に行って、どんな気分で食べてたんだろうな」
叔父さんは深く目を瞑った。すごく疲れているような、それ以上に自分を追い詰めているような。とてつもない後悔をにじませていた。
私は何も言えなくなる、何か言いたいのだけど、適切な言葉が見つからない。
叔父さんはノートの中を指差した。指先を見ると、叔父さんに向けたメッセージだろうか。「あなたの好きそうな、塩加減」と書かれていた。
叔父さんは顔をしかめた。今までに見たことがないくらいのしかめ面だ。
「俺は、仕事ばかりで……亡くなる前ですら仕事で、仕事に逃げてて」
叔父さんは感情に耐え切れなさそうに、片手で頭を抱えた。
「あいつに何一つしてやれなかった」
私は叔父さんを見ていられず、声を上げる。
「だけど、叔母さんは……叔父さんのこと、好きだったよ」
「……そうらしいな」
「叔父さんも、叔母さんのこと好きなんでしょ」
「……」
「なんで黙っちゃうの!」
もどかしくなって私は声を荒げた。すると叔父さんは言い返すように声を上げたのだ。
「あのな……そんなことを口に出す年じゃないからだ!」
叔父さんはそう言ってから恥ずかしそうに私から目をそらした。顔がうっすらと赤くなってる。どうしようもない本心だったようだ。私はきょとんとしてしまったけど、嬉しさがこみ上げて笑った。
「あー。そうか相思相愛かぁ……」
今までの話がどうしようもないほどに重かったもののせいか、急に脱力してしまったのだ。笑いを堪えようと唇に力を入れる。その時、ノートが目に入った。
「あ……」
何だろう、急に分かってしまった。あまりに単純な話だったのに、気づかなかった……という感じだ。思わずポカンと口が開く。
「なんだ、そんなことだったのか」
叔父さんは怪訝そうに私を見る。
「いきなりどうしたんだ」
私は自分の答えを伝えようと、ノートを叔父さんに差し出した。
「叔父さん、今までの話で何も分からないの?」
「え?」
「このノート、叔母さんからのラブレターよ」
叔父さんはびっくりしたという顔で、肩を引いた。
すごい驚きようだ。本当にこの発想にいたらなかったという感じなのだろう。
だけど私には分かる。叔母さんがこのノートを作った動機は、むしろそれしかない。
だってさ、叔母さん、叔父さんのこと、本当に大好きだった。
叔父さんは慌てた様子で言った。
「これは、ほっぽり出してた俺への当てつけじゃないのか」
「だとしたら、こんなに叔父さんへ向けてのメッセージを書かないと思う」
「あ……」
合点のいったという顔をしている。叔父さん、感情をこじらせていたようだなと思った。でも分かる気がする。きっと叔父さんは……。
「叔父さんは、なんというか許せなかったんじゃない。自分を……誰かに怒られたかったんじゃないの」
「誰も責めなかったな……どんなときも」
自嘲という言葉がぴったりくるような笑みを叔父さんは浮かべている。
何だろう、ホントに悲しいな。叔父さんのそんな顔を見たくないな。私は拳を握った。
「だって、誰も悪くないから……病気にかかるなんて、誰も思わなかったし……どうにもならなかったし……」
「ああ……でも、誰かでも俺でも悪かったら、何故だろうまだ救われた気がしたよ」
「叔父さん、ネガティブ! 叔母さんが泣くよ!」
私は本気で怒った。叔母さんは今の叔父さんを見て喜ぶのか、あの向日葵みたいな笑顔を浮かべるのか。いろいろと考えてしまったら感情がこみ上げてしまった。
叔父さんは、一瞬顔をあげてから、困り笑顔を浮かべた。
「そうなんだよな……あいつ、こういうことのほうが、怒りそうなんだ」
叔父さんは私から顔を背けた。え? と思った私に叔父さんは語尾を震わせて言った。
「すまん、沙由理……ちょっとこっちをむかないでくれ」
私は叔父さんから視線を外して、あさっての方向を向いた。
「うん……見ないよ」
絶対にと言葉の外ににじませながら立ち上がる。私は窓から外を見た。
今日は夜空が見える……白い点が青の闇に散らばっている。雨は降っていない。
後ろから、叔父さんの堪えきれない嗚咽が聞こえてきた。
・
叔父さんは顔を洗ってくると、コーヒーを入れてくれた。テーブルで向かい合い、コーヒーを飲む。深煎りのおいしいコーヒーだった。
叔父さんはやれやれと言わんばかりに、目線を下げた。
「ラブレターか、何だろうな……俺はもらってばかりだな」
「そうだね。しかもラブレターに追い詰められちゃって」
私が茶化すと叔父さんは苦々しそうな顔をした。
「沙由理、そこは色々と察してくれないか」
「はーい、わかりましたよぉ」
私はけらけらと笑った。叔父さんの中でひとつの感情の区切りが見えて、嬉しかったのだ。おじさんはすっきりとした表情でコーヒーを飲んだ。
「今度墓に行くとき、お礼を言うよ、美都子に……」
「良いと思うよ。ついでに返信も書かなくちゃ!」
私は人差し指をたてながら提案する。私の言葉が上手く理解できなかったのか、叔父さんは頭を傾げた。
「返信?」
「そう! 叔父さんも叔母さん宛てに記録をつけたらどうかなぁ。きっと叔母さん、大喜びするよ!」
叔父さんの顔に戸惑いと照れが浮かぶ。なんて純情なんだろう叔父さんと、何だか心配になってきた。叔父さんは言った。
「そ、それは恥ずかしい……ような」
「あ、ラブレターを無下にするんだ」
私はジト目で叔父さんを見る。叔父さんは困ったように言い返した。
「なんでそうなるんだ」
「なんでって。叔母さんきっと喜ぶよ、あ」
私はノートを見続けていた。その中で、使い切れてなかったノートがあった。それは叔母さんの最後のレポノートだった。私は叔父さんにノートの無地の面を見せて、にっこりと笑った。
「はい、叔父さん。このノート、使えるよ」
叔父さんは視線をあちらこちらへと彷徨わせた。どうしたらいいのだろうと思っているのだろう。しかし私がテコでも引かなそうと感じ取ると、観念した。
「……分かったよ、書けば良いんだろ」
叔父さんは息をつく。それからノートを私から受けとると、優しく笑った。
「美都子のためだから、な……」