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君の手をとるその日のために「第8話」~君の手をとるその日のために〜

 意識がかすんでいく。近くで自分に声をかけている人の存在は分かる。きっと大声で声をかけているのだろう。けれどもその声は、もやにかかっているように遠い。血を口から吐き出しながら、彼女が向かった先とは別の方向を示す。救護以外の人は慌てて走り出していく。そうだ、勘違いしろ。これで凛子が無事に逃げおおせればいい。秋山にとって、何よりも彼女の無事が第一だった。
「おい! しっかりしろ……!」
 秋山に声をかけてくる人間の声に覚えがあった。きっと電話を取り交わしていた、蓮河原だろうか。真摯な声が、ひどく耳の奥に刺さった。ああ、すいません……騙してしまって……でも、俺……あの人を、逃がしたかったんです……。

 意識の失う直前に見えたものは、心底楽しそうに笑う凛子の姿だった。

 目を覚ました先は、白い霧の世界だった。
どうしてと思った。自分は包丁を腹に突き立てたはずなのでは……それから倒れたはずだ。どうして……もしかしてここは、現実ではないのだろうか。
「駄目だよ、ここに来ては」
 秋山がキョロキョロと周りを見回していると、後ろから声をかけられた。
 振り返ろうとして、自分の頭に手をのせられる。そうするとぴたりと動けなくなった。
「駄目だよ、慎次郎。ここにまだ来ちゃいけない」
 それはあまりに懐かしい声だった。あの日からずっと、聞きたかったような声……。
「にいっ……」
「君には権利があるんだ」
 秋山にそれは、微笑みかける。けして秋山からは見えないが、とても見守るような優しい笑みで。
「幸せになる権利が」
 声にならない声を、叫びを、秋山は吐き出すことしか出来なかった。

 ああ、あなたはそこにいたんですね。
そして俺の幸せを願っていたのですね……。

 幸せですよ、俺は。
大事な人を逃がせたのですから……。
 それ以上の幸せがあるんでしょうか。

 秋山は強く目を瞑った。その姿は星の光のようにさらさらと溶けていく。
それでも彼は笑っていた。

二年後、暁善の国の辺境近く。
 季節は冬を迎え、寒々として乾燥した風がよく吹いていた。
枯れ草は地面に覆っている。白い草の上を、老婆が重い腰をあげて、ゆっくりと歩いていた。先ほどまで重い荷物を背負っていたのだが、手助けがはいり、ずいぶんと楽になった。この場所は辺境に人が集中し、逆に限界集落になってしまった。だから人手はいつも足りない。そんな時に来た彼は、村での大きな助けになっていた。
「ありがとう、秋山さん……荷物は重くはないですかねぇ」
「大丈夫ですよ、これくらいなら」
 秋山は老婆に合わせるようにゆっくりと口を開けた。

 反逆者の逃亡を許す。本来であれば治安警察が今の体制になって以来の不祥事であった。大恥なんて言葉で済まない失態だった。だからこそ、この事態は闇に葬りさられることになった。今回の事態にかかわったものには、すべて箝口令がしかれ、そして何よりの当事者であった秋山は中央区の職から解かれた。けれども治安警察の立場が長かった秋山を放逐するわけにはいかない。そのため、罰と拘束をかねて、辺境近くの寒村に駐在させることになった。以前の状態に比べれば、何もかも不十分だ。食事も貧しくなり、ただでさえ怪我の回復で痩せた体は細くなる。でも秋山の心持ちは以前より軽く、空を見る余裕すらあった。
 彼女は今もどこかの空の下で生きているのだろうか。本を読んでいるだろうか。
 そう、想像するだけで心は満たされた。

「また、今度会ったら野菜でもお裾分けをしますよ」
「ああ、それは楽しみにしています」
 秋山は老婆と別れて、駐在所に帰った。寒さで肌がかじかんでいる。白湯でも飲もうかと思った。
 駐在所の椅子に誰かが座っていた。おかしい、確か鍵をかけていたのに。
秋山は警戒しつつ、椅子に座るそれを見た。頭巾をかぶっていて誰なのか分からない。
 秋山は言った。
「どなたですか?」
 女はくすっと笑った。
「分からないかな? 慎次郎君」
 一度として忘れたことがない。久しぶりに聞いた、凜とした声に、秋山は目を見開いた。そして女の肩を抱く。
「その声は……」
 女は、凛子は頭巾を外し、秋山に微笑んだ。
「私ですよ、慎次郎君」

 凛子は小首を傾げる。
 そして呆然と立ち尽くす秋山に、穏やかに語りかける。
 
「言ったでしょう? あなたの手を取りに、また会いに行くって」

 秋山は眉尻を下げた。人前で泣くなんて情けないと分かりつつも、高ぶる感情が止められない。秋山は眦からこぼれ落ちるものを拭わず、震える声で言った。

「ホントに、やると思わなかった」

 くしゃりと秋山は感情が極まった。

「会いたかったよ、ずっと……ずっと!」

 秋山は凛子のことを抱きしめた。強く、その存在を確かめるように。
 愛おしい人は秋山の頭を優しく撫でた。それはあまりに、温かかった。

 一八四五年、十二月末日、暁善の北方の山村にて、治安警察に所属する巡査長が行方不明になった。元々寒村で、人もいないということもあり、行方不明になって三日も経ってから通報。その巡査長は懸命に捜索されたが、見つかることはなかった。行方が分からなくなった当日に、夜羽(よはね)の国境で騒動が発生。行方不明者探索と、騒動の鎮圧にて辺境を守る人員が大幅に少なくなり、国境警備が薄くなった。その日、普段は穏やかな国境の山鳥が騒いでいたという。

 まるで誰かが通り過ぎたかのように。

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佐和島ゆら
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