君との「今」を切り取る(小説)
あと一週間で桜は東京に行く。季節は冬が終わり、春がはじまったばかり。服の隙間から入る風が、心なしか温かく感じる頃だ。
先々週まで僕と桜が高校三年生だった。
四月になれば僕は地元の地方大学に通い、桜は東京の専門学校に進むことになった。彼女はそこで美容師の資格をとるらしい。
「あー」
そう僕が言うと、桜は読んでいた文庫本を閉じて。
「どうしたの、そんなに気が抜けて……」といぶかしげに言った。
「だって、桜が美容師だって」
「また、その話?」
彼女は苦笑した。僕は何度目か分からない言葉を吐いた。
「なんか、書店で働いているイメージ」
「書店じゃ、ちょっと給料がねぇ」
「時給最低クラスだもんな。この町だと」
「まぁ、女の子が一人では生きていけないよ」
彼女は体育座りして、本に顔を埋める。
僕と彼女は公園の東屋にいた。簡素なテーブルと座席がある。
風は柔らかみのある暖かさがある。しかしもう一時間もすれば冷えも感じ始めるだろう。
「それにしても春貴(はるたか)、今日は何だかさえないね」
「さ、さえない?」
「うん、さえないー。私の写真を撮っていて、なんか頭ひねってばっかじゃない」
僕と桜は高校時代、友人同士であり、それと同時にアマチュアカメラマンと写真モデルという関係だった。彼女の写真は家族より撮っているし、友人の中では一番話していたような気がする。
「だって、うまく撮れないんだよ」
カメラ画像を確認しながらため息をつく。桜の表情もロケーションも悪くはなかった。
普段の写真ならOKを出しても良いくらいだ。だけど、今回に限っては納得はいかない。
今回は特別だった。
桜は美容師になることに専念するし、僕も大学で勉強を頑張りたかった。お互い将来のことに一生懸命になろうとしていた。だからカメラの趣味は一旦お休みということで、その前に「最後」の写真を撮ろうとしていた。
「今日は駄目そうじゃない? 完全に煮詰まっているし」
「確かに……」
「まだきっとチャンスはあるし、その時にしよう」
「まぁ、そうだな……」
僕はしょうがないという思いを胸に抱えたまま、項垂れるように頷いた。
「それにしても、桜。今日は何を読んでいるんだ」
「あー、注文の多い料理店」
「宮沢賢治かー」
「うん、私もおいしいものを食べたいかな。とびきりのごちそう」
「……おごらねぇぞ」
桜はほっそりとした見た目だが、食べ物に執着が強い。しかもやたらおいしそうに食べる。桜はつまらなそうに目を細める。
「塩をすり込んだ春貴でもいいかも」
「こ、怖っ!」
僕は思わず身を引いた。彼女は本好きでよく読んでいるのだが、時々冗談が怖い。
東屋から離れて、駅前に行く。駅前はずいぶんと寂れているが、まるでそこにいるのが意地のようなハンバーガーショップがある。町の皆は高速のインター脇にある大型店舗に行くのに、この店だけは駅前にあった。昔駅前がはやっていた時からの営業だという。なんせ暇な店なもんだから、僕と桜が過ごす時はこの店で気兼ねなく話していた。
「B組の靖君、花川と付き合ったみたいだよ」
「え、あいつら。けんか友達だと思ってたよ」
「実はそういう関係だったというわけですね」
「はぁー」
僕は感心して、天を仰ぎ見る。友人同士だと思ってたのに、関係なんてあっさり変貌してしまうものだ。桜と僕は一つのポテトを分け合って食べているが、僕ら両方にそんな恋情なんて気持ちはない。
「なんかさぁ、付き合う付き合わないってあるけどさぁ」
「うん」
相づちを打ちながら桜はぺろぺろと指先の舌を舐める。
「僕らはそういうの、なかったなぁ」
「うんー。高校三年間どっちも、彼氏も彼女もいないし」
「むしろ互いに失恋ばかりだった……」
「私ねぇ。君のモデルをしたのが失敗だったと思うの。そういう点で」
僕は仰天して、目を剥いた。
「な、何で」
「だって告白する度に、なんかあなたのこと言われてぇ。無理ーと言われちゃうんだもん」
「ええー。僕は桜のことなんとも……」
「周りからすれば、そうじゃなかったんでしょ。邪推したんじゃない?」
「えぇぇ」
僕は愕然とした。僕にとって、桜は大事な友人でモデルではあったが、それ以上のことは本当になかったのだ。僕は彼女が隣で寝ても平気だし、寝相で蹴られても怒らない自信もある。一緒に作品作りをする戦友のような印象があったから、なおのこと彼女の恋の邪魔になっていたのは衝撃だ。
「何だよぉ……それなら言ってくれ。距離取ったのに」
「やだ」
即答だった。桜はポテトをゆっくりと食べている。僕はきょとんとして目を丸くする。
桜は柔く微笑んだ。
「好きになった人は良い人だし、格好良かったよ。でもさ、あんまり気にしてないから。三年間、君の側にいた方がいい」
「よく分からん」
「……君は罪だね」
「え」
「私を堕としたのに」
「ええっ!」
僕は何かしたというのか、僕たちは戦友のように、カメラにとりくんでいたはずだろう。僕が慌てふためていると、重心が下がり、座っていた椅子をひっくり返しそうになる。桜は一転してけらけらと笑って手を叩いた。
「やったね、私の勝ち。君は写真以外じゃ、私に勝てない」
「くそ……否定が出来ねぇ」
「写真はいいのにね」
存外に人格では、全然というニュアンスを感じる。
「まぁ、俺たちがつながったのは写真だしなぁ」
「そうそう」
「あれは奇跡だったと思うよ……」
僕はテーブルの端に置かれたカメラを見た。
桜とまともに関わったのは、高校一年の四月末。体育祭があった日の放課後だったと思う。汗をかいていた体は時間が経って、少しは引き、疲労感が全身を支配していた。少しぼんやりとする頭の中で、僕は帰る準備をしていた。喉が少しひりりと渇いていた。
学校の一階にある自販機でお茶を買って帰ろうかと思った時、桜が教室に入ってきた。ほとんどその時接したことがないこともあって、一瞥せず、彼女は隅の席に座った。
そしてチョコレートをつまんで食べ始めた。窓の外の夕焼けを背にして。狂おしい色を背景にして、チョコレートを、目を細めて食べる桜。髪の毛は影になる中で、扇情的な瞳が印象的だった。僕はとっさにカメラを掴んでいた。そして構えた。彼女は指先についたチョコレートを食むように舐める。その瞬間を、僕は、切り取った。
「っつ……!」
彼女は驚いたように目を丸くして、こちらを見た。僕はびくりと肩を揺らす。
「あ……」
彼女は立ち上がり、昏い目をしてずんずんと迫ってきた。
「なに、今の」
「あ……写真撮ってました」
僕は素直に白状した。彼女はじろりと僕を睨んでいる。
盗撮したと思われたようだ。確かに撮ることを伝えて許可を取ってない以上、盗撮以外の何物でもないが。僕は桜に要求されるよりも前に、写真を見せた。変なものを撮ったつもりはなかった。僕はあの瞬間「奇跡」を見た。それを切り取っただけだ。
彼女は僕を見ると、カメラの画面を見る。その瞬間、息を吸い込む音が聞こえた。
「誰、これ……」
「誰って、君だよ」
僕は彼女の言葉に戸惑いながら言った。彼女はびっくりしたように声を上げる。
「ええっ、こんな綺麗なわけないじゃん! 加工でもしたの」
「んなわけあるかっ、君がそれだけ……綺麗だったんだよ」
声が尻すぼみになった。何だろう、間違ったことは言ってないはずなのに、何だかとっても恥ずかしかった。人を面向かって褒めるなんて、幼い時以来久しぶりな気がした。
しかし僕の言葉は彼女に最後まで伝わっていたらしく、耳まで真っ赤になる。
「え、ええ……綺麗って……」
彼女は頬を指でかいた。それからまるで非礼をわびるように頭を下げる。
「あのさ……」
彼女は顔を上げておねだりするように言った。
「私に、この写真、ちょうだい」
「う、うん」
僕らは写真交換のために、メール交換した。これが……僕と桜の付き合いのはじまりだった。
桜は氷しか残っていないジュースをストローで吸う。ずずずぅという音がする。
「でもさぁ、何が満足じゃないのですかね。先生」
「最後だから、特別な一枚が撮りたいんだよ」
「めんどい……」
桜はやれやれと言わんばかりに頭を横に振る。
「あんだけ写真を撮ってるんだよ。わりと撮り尽くしている気がするけど」
「確かに大量には撮ってる。でもまだ見たことのない表情があるかもしれない! 諦められないんだよ」
僕は画像を見直ししながら、きりきりとした声で言った。それに桜は呆れた表情である。窓の外に目をやる。
「あのさぁ、春貴」
「何だよ」
「あと一週間なんだよ」
「そうだな」
僕は画像の選定に夢中だった。
「私たち、また会った時、同じでいられるのかな」
僕の、指の動きが止まった。
「どういうことだよ」
「そのままの意味よ。別れてまた会った時、こんな風にぐだぐだ出来るのかな」
「出来る」
「え」
「お前が変わるとは思えない」
「ばっかじゃん。春貴」
桜は言葉を投げ捨てるように吐いた。僕は馬鹿という言葉に反応して、顔を上げた。
「馬鹿って……」
「私は変わってるよ」
唐突な告白だった。僕は桜をじっと見た。
「私、今春貴とおしゃべりしたい。春貴にカメラを見てもらいたくない」
「何で」
そんな言葉を今まで聞いたことがない。彼女と僕はカメラや写真で強くつながっていたじゃないか。
彼女は文庫本の角で軽く、僕の頭を叩いた。
「だってもうちょっと離ればなれなんだよ。しばらく帰ってこないんだ。春貴は一度離れた友人を、気軽に声かけられる?」
「それは……」
問い詰められて、急に自信がなくなった。同性の友人ならわりと気軽かもしれないが、異性の友人は、考えてしまう。特に桜は都会に向かう……都会で人は変わるという。彼女は感じているのだ、環境の変化が己を飲む込むことを。いやすでに変わりつつあるのが。
桜は深く重苦しい息をついた。
「この、写真馬鹿」
僕はカメラをいじっていた。真面目な話をしているのだ、カメラをいじっている場合じゃないのに。僕はカメラをいじっていた。とことん、僕はカメラと離れられないらしい。写真馬鹿と僕に言った桜は、ぼんやりとした目でスマホをいじっていた。
何だろう、彼女を悲しませたと思う。だけどそれにたいし、上手い弁明が思いつかない。いや弁明沙汰ではないし、謝罪沙汰でもない。ただ彼女へどう言葉をかければいいのか分からないのだ。なんて愚かしいまでに不器用なのか……。彼女は変わるかもしれないが、僕はいつ変われるのか。
彼女の写真を僕は何枚も見た。いろいろな表情を撮った。
笑った顔、照れた顔、泣き顔、憂鬱そうな顔、まるで七色の虹のように多彩な彼女の表情を撮ってきた。だけどどの写真を見せても、彼女を喜ばせられそうにない。桜は写真の中では一人だった。一人……そうだ、彼女はモデルだったから写真の中では一人だ。
だって彼女は作品だったから……だけど今きっと必要なのは。
僕はスマホを掴んで立ち上がった。カメラの方がいいんだろうけど、しょうがなかった。
「桜、こっちむいて」
僕が声をかけると、彼女は怪訝な顔でこちらを見る。いきなりなんだと思ったのだろう。僕は意を決して彼女の座席の隣に座った。
「へっ」
僕は彼女にぎゅっと接近する。そしてスマホをかざした。
「一緒に撮ろう」
「一緒って」
また許可は取らなかった。
僕は、シャッターを切った。慌てふためく桜と、真顔で画面を見つめている自分を。
ああ、まさか自分が被写体になるとは……。僕は撮った後で顔を真っ赤にした。
そしてなんと言えない表情を浮かべている桜に、写真を見せた。
「……何これ、変な顔じゃん。私たち」
「そうだな。でも撮りたかったんだよ」
僕が言うと桜は頭を傾げた。
「なんで……?」
「そりゃ、僕と桜は友人だから」
続けて僕は言った。
「作品じゃない写真を、撮りたかったんだ」
この一瞬は、今しかないかもしれない。
だけど僕たちは確かに友人だった。
それを残すことが出来る方法を、僕はこれしか思いつかなかった。
「今しかないだろ、こんなこと出来るの」
僕は困ったように笑う。それに桜は少し泣きそうな顔で。
「もっと綺麗に撮ってよ」と言った。