黒い煙の少女(小説)
……神様に選ばれた、神様に選ばれた。神様は許さなかった。
五月近くになり、最初に教室中に広がっていた緊張感はまるで排水溝に吸い込まれる水のように、なくなっていった。段々心の緩みが出てくるというか、そうだ、もう少しでゴールデンウィークだ。長い連休をどうすごそうか、新しくできた友達同士で語り合っている。私だってその一人だ、学校近くのショッピングモールで遊びに行こうとか、放課後は何を食べるとか、なんだかんだと賑やかに過ごしている。幸い私のまわりの人間は教室のなかではなかなかレベルは高い。会話内容も、幅広いし、おしゃれにも気を遣っているようだった。ただうちの高校、校則はかなり厳しくて、髪の毛の色がもとから薄い子は、髪を染めたのではないかと疑われて大変だったらしい。高校二年になるとその校則の厳しさにうんざりしてくるが、それもまた高校の秩序を守るためらしい。大変だなと思ってしまう。まぁ、さすがにゴールデンウィーク中に巡回していたとしても、夜遅くには出歩くつもりはないから、なんともないと思うけれど。
私がそれを見たのは、これから待っているゴールデンウィークに思いをはせつつ、数人の友達とお弁当を食べている時だった。
最近関わり合うようになって、友達と呼んでも良いかなと思うくらいの同級生を見た時だった。その子は三ヶ月前に転校してきた少女だった。
「どうしたの? 亜矢ちゃん」
「え、何でもないよ。ご、ごめんね」
初音という名前の子に、それまで見えなかった黒い煙が見えたのだ。
動揺のあまり、思わず声にぶれが見える。これはまずいと私は笑顔をなんとか浮かべた。周りの様子をちらりと見る。周りは全然気づいていないようだ……こんなに黒い煙に包まれているのに、何もないような顔で食べ続けている。
むしろ初音の卵焼きと、ウインナーを交換している子さえいた。どうも自分だけが見えているようだ……何でこんなものが。私の目はどうかしてしまったのだろうか。私は頭の上にはてなマークが浮かんだ。いくつも浮かんだ。
初音はおとなしい子だった。友達という立ち位置であったが、その特徴を聞かれたりしたら、おとなしくて良い子という感じだった。テストの予測範囲をあてることが得意らしく、小テストの前にはいつも誰かしらに勉強を教えていたようだ。優しいのか、教室の花瓶の水を細かく換えていたし、掃除も手抜きをせず、手早いながらもきちんとやっていた。よくよく考えれば非のうちどころのない女の子だった。だがその印象は自分でも驚くくらい薄い……。
なんか疲れているのかな……私は頭をひねりながら、その日は早めに家に帰った。
次の日。数学の宿題をしたのだが、分からないところがあった。私は図形の問題が嫌いだ。全然その図形の形が頭に浮かばない。だけど解けないまま、理解できないまま提出するのも、後が大変そうだった。頭の良い初音に解説を頼もうかと思って、彼女の登校を待つ。昨日見たものは、きっと私の頭が疲れていただけと楽観していた。それはそれで若干自分に対して不安になったけど。
「おはよう」
初音が教室に来て挨拶をする。私は「おはよう」と返そうとして、一瞬喉が詰まった。黒い煙が彼女を上り立つようにまとわりついている。見ていて、ぞっとするくらいだ。私は思わず、腕をさすった。
「おはよ……」
どうしよう、質問したりとか解説をお願いしたりとか、いろいろ考えていたのに……何もかもが頭から逃げてしまった。そう、完全に私は怖じ気づいていた。黒い煙から何故か視線を感じて……居心地が悪かった。
初音は今日も教室の誰かが持ってきた花を花瓶に生けている。状態が少し悪くなったものもあるらしく、丁寧に花を選別している。黒い煙は相変わらずまとわせていたが。何だろうなぁ、彼女はいつ見ても、真面目な良い子だ。良い子だから、印象が薄いのだろうか。いやそれにしても初音に対する印象というかイメージの浅さは異常だ。皆、初音の印象を聞かれた際に、ちょっと深いことを聞かれたら、誰もその疑問に答えられない気がする。そもそも彼女は県外からの転校生であったが、かつて通っていた高校についての話はほとんど聞いたことがなかった。話すことがないのか、話せないことがあるのか。
そう考えると、初音という子は謎に包まれている。というか、突っ込みどころがなさ過ぎて、逆にそれが突っ込みどころになっているというか。黒い煙はかなり気になったが、私はもう少し初音との仲を深めたいと思った。
そう考えると、彼女に近づく方法はあれである。
勉強だ。
放課後、初音に勉強を教えてくれるように頼んだ。初音は少し顔色が悪くなっていて、何でそんな顔をしているのだろうと思ったが、私の言葉にすぐに頷いた。少なくとも私に関して、顔色を悪くしていないようだった。じゃあ何故あんなに血相を悪くしているのだろう……その疑問はわりとすぐに解決した。
友達の一人が、私にこんな噂話をしたのだ。
「なんか、初音っち。告白されたみたいよ、A組の子に」
「え、A組の誰」
「織田君だったとか、女子の間で噂になってるよー」
「そうだよねーすごいな、それ」
織田君は学年内でも有名な生徒だ、身長も高いし、頭も良い。バレー部の特待生もしている。学年内の男子の中では、最上級の男子だ。そりゃそんな織田君に告白されれば動揺の一つもするだろう。というかそれを聞いた私も動揺している。きっとこの感情は、学年内の多くの女子で共有されているだろう。
やばいわ……それは……天地がひっくり返りそうだわ。だけどさっき見た初音の顔は完全に告白されて動揺しているというより……何か恐れていたことが起きたと言わんばかりの恐怖のように感じた。ちょっと、自分でも何を考えているのだろうと思ったけれど。私はその疑問は友達に打ち明けることはせず、とりあえず時間が近づいたので、約束していた図書室に向かった。
「お待たせー」
「私も今来たところだよ……英語のどこを知りたいんだっけ」
「えっとねー、文法なんだけど」
私は彼女の首元を見る。今日の煙は全体的にまとわりついているというより、首元に黒い煙が集中している。まるでマフラーみたいに、彼女を包んでいる。こんな黒い煙にまとわりついていることに彼女は気がついていないのかな。私は勉強を教わりつつ、初音に気づかれないように頭を傾げた。
初音の教え方は優しかった。わかりやすく伝えたいという気持ちが深く感じる。初音が何かしらの先生になったとしたら、そのわかりやすさで人気になりそうだなと思った。
「それでね。この単語が出てきたら……」
彼女自身も言葉が生き生きとしている。少し話を聞くと、以前の高校でこうして勉強を教えていたらしい。人の役に立つことが嬉しいの、ぽつりと出てきた初音の言葉は、彼女の人間性を象徴しているような気がした。
なんだか、不思議な感じだ。私は彼女の姿に微笑ましくて、小さく笑った。一時間はあっという間だった。
「ありがとうー、助かった」
「ううん、これくらいお安いご用だよ」
初音はにこにこと笑っている。その姿に私は甘えてしまうように言った。
「あのさ、また何かあったら助けてもらってもいい?」
初音は大きく頷く。
「うん、もちろん」
初音は図書館の席から立ち上がった。私が来る前から読んでいた本を戻しに行ったようだ。ちらりと見ると綺麗な女性の絵が表紙だった。
戻ってきた初音に私は聞いた。
「絵、好きなの?」
「え? ああ、うん、好きだね……」
「初めて聞いた、全然そんなこと話さないから」
「私の話だし、そんな重大じゃないと思って……」
彼女は奥ゆかしい態度をとっているつもりなのか、肩をすくめる。いやいや、何を言っているのだ。そういうの、ちょっと水くさいと思ってしまう自分がいた。黒い煙が初音の全身を覆うように広がる。
私は身を乗り出して言った。
「大事だよ、友達じゃん。色々と知りたいよ」
初音は目を見開いた。心底驚いたような顔をしている。
「友達……」
「え、違うの」
彼女は慌てて、横に手を振った。
「ううん、違うの……ちょっとあまり言われたことがなくて、戸惑ってしまって」
「ま、まぁ確かに。私たちのグループ、そんなこと面向かって言わないもんね」
「そ、そうだね」
私たちはお互いに顔を見合わせて、照れ笑いを浮かべた。なんだかくすぐったくてたまらなかった。なんだ、この子のこと、煙が気になって近づいたけれど、めっちゃ良い子じゃないか。
初音はおずおずと話を切り出した。
「私ね……この人の絵が好きなの」
初音の好きな画家は、近くの美術館でたまたま個展を開いているらしい。大好きなモノを語る彼女の顔は本当に楽しそうだった。そう変な話だけれど、私にはひとりの人間の少女に見えたのだ。
でもそんな楽しい時間は、長く続かなかった。
数日後、私たちの運命は大きく変わっていったのだ。
「その子は疫病神だよ!」
そう言いだしたのはA組の女の子だった。校舎裏に呼び出されて、何だ急にと思っていると、彼女は堰を切ったようにそんなことを言いだした。
「疫病神? 初音ちゃんが……?」
彼女はぶんぶんと頭を大きく縦に振る。彼女の名札を見て気がついた。この子、PTA会長の娘だ。
「あの子がどうして、この高校に転校したと思う?」
「え? 親の都合とかそういうもんじゃないの」
「違うよ。彼女のいた高校で事件が多発したからだよ!」
例えば、体育祭でクラス対抗戦があり、いじめられていた彼女は故意にボールを当てられた。するとそれをやった人間や笑った周囲はいきなり過呼吸で倒れたり、例えば彼女を馬鹿にした生徒は交通事故にあったり。初音の周りでは初音に絡むととんでもない事件が起きていた。
「あいつは疫病神にとりつかれてるんだよ……近づいたら、とんでもないことになるよ」
「どうして……それを私に。しかもどこでその情報……」
「私の親はPTA会長でしょ、情報がたまたま共有されてたの。別に私はその子と関係ないけど……でも織田君があの子に告白したって聞いたら。黙ってられない……あの子に誰も近づかない方が良いって……」
この子、どうも織田君のことが好きだったようだ……今までこんな言いふらしに走る行動に出たことがないか、言いながら自分の行動に迷いがあった。でも織田君をこのまま初音に心傾けられるならと、思いあまっての行動のようだ。多分最近私は初音と仲良くしている。彼女と懇意になっている人に伝えて、距離をとらせて、孤立させようというのか。嫉妬と善意と恋心が混じって、この子を突き動かしている。
「それって、他の人にも言ってるの」
彼女は頭を横に振る。
「ううん……あなたが初めて。これから、他にも話すつも……」
彼女は急に振り返った。私も彼女の振り返った方向を見る。すると、そこに初音がいた。
「あ、ごめん……聞くつもりは……」
初音の声は震えていた。
「ただ、亜矢ちゃんが遅いなって思って……」
A組の子は初音を見るなり、肩をいからせる。
「あんた、織田君に惚れられたからって調子に乗らないでよ。あんたの昔を知ったら、誰だって離れていくんだからね……!」
「っつ……それは」
「良い子ぶって、実は笑ってるんでしょ。織田君に告白されたからって。私、そんな人大っ嫌い!」
初音の顔は顔面蒼白だった。数日前に告白されたとされる時よりもずっと顔色が悪い。青いを通り越して白いくらいだ。彼女はA組の子と距離をとろうとする。しかし初音に食いかからん勢いで女の子は近づく。
ふっと、私は気がついた。黒い煙の黒が、どんどんと闇深さを増していく。まるで憎悪を覚えたかのように、おどろおどろしくなっていく。しかし女の子は気づかず、嫉妬を初音にぶつけている。その時だ、煙が初音からバッと離れて、地面で成形した。黒猫になった。しかしその目は真っ白で瞳がない。普通ではない猫だった。猫は怒る女の子の影に近づく。そして、顔のあたりをむしゃむしゃと食べた。影は首なしになった。
「っ……」
私は口元に手を当てた。猫の口元が血で、汚れている。でも嗤っている。
心が凍り付くような光景だった。私はどうすればいいのか分からず動けない。猫はまた煙となって、初音にまとわりついた……。
私は意味が分からなかった。でも不吉な予感がした。
……翌日というより、夜になって、連絡網が回っていた。
A組の、私に告げ口してきた女の子が行方不明になった。
数日後、彼女は首なし遺体で発見された。
突然何故か家出していたらしく、そこで女の子に接近した男に、拷問(あそば)れて、殺された。学校は彼女の死で騒然となった。
でも私はそのことが、ある意味どうでもよかった。猫が食った頭の影。首なし遺体。疫病神にとりつかれた初音……。頭の中で疑問がぐるぐると回る。私は机の上で拳を握りしめた。その時だった、初音に声をかけられたのは。初音はなんと言えばいいのか分からないほど、硬い表情を浮かべていた。
「見えてるんでしょ、亜矢ちゃん」
彼女は誰もいない場所を希望していた。私は係で管理していた体育倉庫にとりあえず入った。声も体育用具で吸収されてしまうからだ。彼女は体育倉庫に誰も入れないように鍵をかけた私に、さらりと言った。
「見えてるって……」
「この子、というかこの煙……」
黒い煙は、初音の体をぐるぐると巡るように動いている。彼女は気づいていたんだ。私は観念したように頷いた。
「うん、見えてる……気づいてたんだ」
「亜矢ちゃんみたいな人は、初めてじゃないからね。ただ、だいたいは不気味がって近づかなくなるから。亜矢ちゃんは変わってた」
「そうなんだ……」
とはいえ、私も亜矢ちゃんに近づいたのは興味本位に過ぎなかったんだけれど。初音は硬い表情のままで言った。
「亜矢ちゃん、私から離れた方が良いよ」
「なんで」
私は目を大きくした。なんでA組の子と同じようなことを言い出すのだ。
自分が疫病神だとでもいいのか。私が目で感情を投げかけていることに気がついたのだろう。亜矢は眉を悲しげに寄せた。
「私は将来、神様のお嫁さんにならないといけないの」
「え? 将来?」
「正確には死んだ後にね……私は神様に気に入られてるの。この煙は、神様の体の一部。私に危害を加えてくる相手を罰するための」
「……A組の子は神様を怒らせたの?」
初音は項垂れるように頷いた。
「そうね。私がここで楽しく生活するためにもと思って、殺したのかも」
「……」
何も言えなかった。合点することばかりだ。彼女が誰とも深く仲良くせず、関わらなかったのは、何かあったときに神様を怒らせないためなんだ。 神様に愛されているが故に、人間には愛されるわけにいかない。
初音は、そういう少女だったのだ。
初音はぎゅっと胸元を掴んで言った。
「神様はあなたの心を気に入ってる。だから今のうちに、私から離れて」
「初音ちゃん……」
「私、あなたのこと、友達だと思ってるから……亜矢ちゃんに何かあって欲しくないの」
初音はぼろぼろと涙をこぼす。頬には幾筋もの流れが出来る。
彼女は私のことが好きなのだろう。初めての友人だったのかもしれない。だけど、だからこその発言なのだ。大事なモノを失いたくない。でもその心の内は死ぬほど、苦しい。私は彼女を見つめた。初音の悲壮なまでの祈りを見ていた。私はぐっと息を飲む、そして力強く彼女に近づいた。
彼女の、胸元を強く掴んだ手を掴む。
「あ、亜矢ちゃん……」
「今度、ゴールデンウィークに美術館に行こう。初音ちゃんの好きな画家の絵を、見に行こう」
「え……でも」
「私は初音ちゃんと見に行きたいよ、二人で見に行こう」
「亜矢ちゃん……だけどっ」
私は彼女を強く抱きしめた。ひゅっと初音の喉の鳴る音がする。
「いいんだよ、初音ちゃん」
私は初音に笑いかける。本当は初音を包む煙が怖くてたまらなかったけれど、でも、この子の運命から逃げたくなかった。せっかく出会えたじゃないかと思ったら、手放したくなかった。初音は困惑しながら私に抱きしめられ続けている。私は彼女に囁いた。
「だって、私たち友達じゃん」
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