私は食べたい②「私と君と幸せ」(小説)

第一話はこちら https://note.mu/sawajimayura227/n/ned6c99201738

 濡れそぼるネズミになりそうだ。町は夜霧の雨に沈んでいる。
視界が煙っていた。細かくさやさやと、冷たい雨が降っている。一昨日までは夏を想起させるような蒸し暑さと晴天だった。しかし今日は昼からずっと、雨が降り続けている。小糠雨というらしい。まるで私の行き先を分からなくするような雨だ。私は傘を差して歩きつつ、嘆息する。今日の彼女はどうなのだろうと思った。前に来た時の彼女は、常に見え隠れする情緒不安定が、一段飛び越えたように見えたからだ。
 彼女のアパートの前で、傘をたたむ。彼女の部屋の前に着くと、雨から逃れたい一心でベルを鳴らす。扉の向こうで人の動く気配がした。足取りはゆっくりだ。のんびりしているというよりは、動かない体を一生懸命に動かした結果のように思えた。私はそれに焦りを募らせないようにして待つ。
 扉がきしむ音を立てて、開いた。扉が開かれた途端感じたのは、香りだった。ジャスミンの花の匂いがした。彼女の髪の毛は濡れていた。濡れた黒鳥のような、ツヤのある髪だった。
 お風呂に入っていたのだろう。だが湯船で疲労をすっきりさせていたはずの彼女の表情は、相も変わらず冴えない。彼女の瞳に、光を反射して強く輝くガラスのようなまばゆさが宿ることはない。汚水が流れる下水道の奥で、肉を食む獣に見える。口の周り血で淫らに汚して、数日ぶりの食事にがぶりつくのだ。
 そしてそれをのぞき見た、己を食らう捕食者を、驚愕と恐怖が入り交じった目で見る。
そんな姿がよく似合っている気がした。最近までそんなことをまったく考えていなかったのに「いぶりがっこ」を食べていた時の彼女が、見たことのない顔をしていたのが、影響している。

 彼女の部屋に入る。本当に最低限の生活スペースしかない部屋だ。ぐしゃぐしゃに丸められた紙が何枚も転がっている。彼女は明らかに恥ずかしそうな視線をこちらに向けた。
「失敗作なの」
「失敗作?」
「今度の漫画のプロットを描きだしてみたの、でも、何か全然で」
「見たら、駄目なヤツか?」
 彼女は何度も頭を縦に振った。断固たる意思すら感じることが出来た。彼女は失敗したと思ったものは、評価において覆ることがない。掬い上げられることはなく、拒絶してしまう。
 
——ああ、駄目だね。

 乾いた声で、彼女は失敗作の漫画を、こともなげなくゴミ箱に捨てた。音もなく、くしゃくしゃの「失敗作」はゴミ箱に入っていった。
 
 雨が降る、冷たい夜は、手を動かしていて指先がしびれる。この症状はしばらく続いていた。最近あまりに長く続くのが気になって、肘のレントゲンを撮ってもらったが、何もなかった。医者はビタミンB12を処方し、様子見を指示した。私の杞憂なんだろうか。だけど確実に指先はしびれている。こわばり、冷えて、しびれた指先は、まるで石像を触っているような感じさえする。私は感情を息に託す。やっていた作業が全て嫌になるような、腹の底に重い石ころでも詰め込まれたような気分だ。狼の絶望的な嫌気がよく分かる。
「どうしたの?」 
 自分の右手の指先を暖めようと、左手で包み始めた私に、彼女は不思議そうに目を丸めた。お互い、集中力はそれなりに長い。だから一時間も経たずに集中力を切らした私に、彼女は作業する手を止めた。あまり見ない光景だからだろう。きょとんとしている。私はまいったなと思いつつ、ふわりと柔らかく笑いかけた。
「いやさ、手がしびれるんだ」
「大丈夫なの? それ」
「医者的には何とも。強いて言うなら栄養が足りないんじゃないかって」
「偏ってるのね」
「君ほどじゃないよ」
 私は指を玄関先へと向ける。玄関には明日出すためだろう、口の縛られたゴミ袋があった。
その中には赤い、同じパッケージのカップラーメンがいくつもあった。前来た時に食べていた担々麺だ。よほど気に入っていたらしい。彼女は少し不満げに頬を膨らました。
「うるさい」
 そうして彼女は、私の言葉への仕返しなのか、指先をぎゅっと握った。しびれた指先に思わぬ刺激。私は思わず顔をぎゅっとしかめた。
 私は眉尻を下げて、彼女に請うように言った。
「本当にしびれているんだ、強い刺激は辛い」
「……確かに」
 彼女は私の指先を、さっきとは打って変わって優しく手で包み込み、息を吹きかけた。息の温みが撫でるように肌へと伝わっていく。手からはじんわりと、彼女の体温が染みこんだ。
「冷たい、ね」
 そういう彼女の言葉はどこか熱に浮かされているようだった。陶酔感すら感じた。
何度も息を優しく吹きかける。私の手をさする彼女は、なんとも言えない、濃艶な微笑みがあった。やばいなと思った。何だろう、胸の奥が森のざわめきのような不穏さがある。
 これ以上、彼女には近づかない方がいいと、心のセンサーにささやかれているような気がする。そのセンサーに従う。それによって守られる平穏があるのだ。
 彼女はそっと指先に口づけた。かさついているはずの彼女の唇は、柔らかく感じだ。桃色の唇になっている気がした。彼女は濡れた舌先で、肌をすぅとなぞった。
 怖気が走る。背筋にちりちりと這い上がっていくような、劣情とかぶった怖気だ。
 私は、私だって、彼女のような行動に出たい。でも私がそんなことをしたら、大事な彼女はおびえてしまうかもしれない。煽ったのはそっちなのに、いざ「狼」に出会うとおびえる赤ずきんのようだ。彼女はそれくらい、自分の行動に無頓着だった。
 私は波上がりそうな心情を押し隠して言った。
「駄目だよ」
「駄目なの?」
「駄目だって」
「そうなんだ」
 彼女は困ったように目を細めた。
「おいしそうだったよ、指先」
 私は思いきり顔をしかめた。彼女は肩をすんと落とした。
「ひどい顔だね」
「そうかい」
「ひどい顔だったよ」
 彼女は一生懸命描いた絵を破られた子供のような、傷ついたような表情を浮かべた。だがその表情は、本当に一瞬だった。すぐに笑いかけてくる。花咲くような、純朴で素直な笑みだった。くるくると変わる表情の変化に呆気にとられる。
「でも、許そう。その無礼」
「なんだろ。偉そうだね、許すって」
 私の言葉に彼女は大きく胸を張った。
「まあ、そうだけど。でも許すよ」
 彼女の薄く細い体は、傲慢な自信を見せつけようとした。しかし迫力がちっとも足りない。むしろ彼女の様子は、裸の女王様と言わんばかりだ。滑稽とも言えた。きっとそれは彼女も分かっていた。すぐに彼女は胸を張るのを止めた。
 そして私の胸にしなだれかかるように抱きしめる。
「幸せなの」
「え」
「幸せなんだよ」
 何だろう。幸せと言っているのに。彼女の声の調子は、幼鳥の親を呼ぶ声のような、心細さがあった。
「私ね、あなたといると、何だか、幸せなんだ」
 彼女の腕は私の首に回される。彼女は私の耳元で囁いた。
「あなたは、どんな時が幸せなの?」
 ずくんと胸の奥が、ガラス片で突き刺されたような痛みが走った。
彼女の言葉があまりに重たい。私の幸せ? 普段はあまり触れないようにしている話題だ。私に対して世間の風当たりは強い。男性でも女性でもない。私という人間を見てほしいという主張は、世の中にはうまく受け入れられない。存外で、適当な解釈で、私の心を蹂躙するのだ。私を理解すると、薄っぺらい仮面をつけて、色々な人が私を行き過ぎた。もてあそんでいった。私を体の性である女にしようとする者も、態度から男になりたいんだと思って、男にしようとする者もいた。私は私だ。性別にとらわれない私でいたい。ただ好きな人の側にいさせてくれと願うばかりだ。現実の地獄によく似ている。それでも私は彼女と居られれば、それで良かった。彼女は私の同好の士であり、そして私という人間を欲してくれた。それがどれだけの喜びだったか。
 私は彼女の髪を掬うように撫でた。
「私は、君と居る時間が一番幸せだよ」
 彼女はその言葉に心底驚いたように、背筋をびくりと震わせた。そして慌てて、私の唇を指で塞いだ。
「駄目だよ、私はあなたを振り回してばかりだよ」
 彼女は贖いをさせようとする裁判官のような、厳しい表情で私を見た。
「きっと、あなたは幸せが分かってないんだよ」
 そう諫める彼女の真意が、私には分からなかった。彼女は一体何のために「どんな時が幸せなのか」と聞いてきたのか。自分と一緒に居ると幸せだと言ってほしいのだと思っていた。この理不尽さを訴え出ようとする。しかし彼女の瞳が、触れれば溶ける蜘蛛の糸のように危ういことに気がついた。私は喉の奥から飛び出そうな言葉を必死に止める。きっと彼女は、私では手が届かないくらいに、自分のことを信じてないのだ。だから平然と自分が関わる言葉をはねのける。
 私は力のないぼんやりとした声で言った。
「君は幸せなのか?」
「幸せだよ、あなたがいるし」
「……そうか」
「でも、あなたも幸せを見つけなきゃ駄目だよ」
「……そうかもしれない。でも、今は君の側が良い」
「他に幸せがあるのに……変わってるね」
 私は言葉というものの、無力さに、歯噛みした。
 
 彼女は今日も秋田のモノがあると言った。私はあまり彼女の話に気が乗らず「そうか」と短く応えるばかりだった。今は正直食べ物に心が動かない。どこかやり場のない感情に、心がぐらぐらしていた。
 彼女はガラスの器に、黄色みがかったシャーベットを持ってきた。
 私は頭を傾げる。
「これは?」
「増田の、あ、増田町のりんごジュースを凍らせたのだよ」
「ふうん」
 私は曖昧に頷いた。それから疑問を口にする。
「秋田県って、りんごが有名なのか? 青森だと思ってたけど」
 すると困ったように、彼女は私を見る。
「さぁ、よく分からない。ただ増田を中心にりんご畑はよくあったよ、平鹿の醍醐とか、横手にもあったな」
 私はその言葉に感心しながら呟いた。
「果物も植えてたんだ、秋田って」
「米だけじゃないんだよねぇ、実は」
「でもりんごジュースを凍らせても大丈夫か? 味がおかしくならない?」
 市販のりんごジュースを凍らせた時、濃縮された部分とただの氷とに二分されて、私は悔しい思いをした。それにくすくすと、目を糸のように細くして、彼女は笑う。
「これはそんなことないよ。すみからすみまでりんごしているから」
 彼女は私をまじまじと見る。
「あなたがりんごジュースに、そんな心配をしているなんて、初めて知ったよ」
 はにかむように笑う彼女に、私は何も言えなくなった。そっとスプーンでシャーベットを掬った。一口、口に入れる。外は雨が降り続いていた。だが室内は冷え込まないように暖められていた。そんな中で食べるシャーベットは贅沢だった。
「すごい、りんごだ」
 私は目を見開く。シャーベットにされたりんごジュースの味は、濃さとまろやかさが両立している。りんごジュースで飲んでも格別だろうが、シャーベットにすると上品な味わいで、それが格別だった。私は何度もスプーンでシャーベットを掬い、口に運んだ。
「懐かしいなぁ……増田のりんごって、冬になると地元の人に売り出していて、何度も買ってたなぁ」
「じゃあ、冬はこたつにりんごだったのか?」
 彼女は小さく頷いた。
「うん、毎日なくらいりんごを食べてた。ちょっと多すぎて飽きてきたけどね……でもこうして久しぶりに食べるとおいしいよ」
「そうなんだ」
「お母さん、りんごの皮むくの下手でね……なんか、皮が付いていたのを渡されるのが多かったな」
 私はほっと胸をなで下ろしていた。彼女の容姿に、いぶりがっこを食べた時のようなおびえが見られなかった。
 彼女はううぅんと急に唸りだした。どうしたと思ったら、彼女は困ったように私に視線を向けている。
「ねぇ、あなたのお母さんって、人格が乗っ取られることってある?」
「……特にそんなことはないかな」
「そうなんだ」
「普通は乗っ取られることはないと思うけど。それこそ映画だよ、宇宙人に乗っ取られたとかくらい、荒唐無稽かも」
 彼女は黙り込んだ。そしてぽつりと言った。
「もしかして、そうかもしれない」
「は?」
 彼女は私に背を向けて、急に服を脱いだ。ぎょっとしている私に、彼女は大きく背中を見せる。そこには、大きな古傷があった。
「お母さん、きっと宇宙人に乗っ取られたんだ」
「その傷どうしたんだ」
 彼女は私の疑問が耳に届かない様子で、言葉を続ける。
「殴ったり、小さい箪笥で殴りかかったりしていたお母さんはきっと、宇宙人に乗っ取られたんだ。それはいけないね、いけないよ」
 私は彼女の言葉に思わず、声を荒げた。
「違う、それはただの虐待だ」
 それに彼女はいきり立った様子で言葉を返す。
「でも別の日だと、愛してるって言ってくれたり、謝ってくれたり、頭も撫でてくれたんだよ!」
「だけど」
 私の言葉に彼女が顔をくしゃくしゃに歪めた。
「そうさせてよ、お願いだから、そうさせてよっ!」
「っつ……」
 私は彼女の言葉に、息を飲んだ。彼女はきっと何もかも分かってる。
 分かっていて、自分を騙そうとしている。彼女は沈んだ顔で言った。
「私ってさ、愛されていたのかな……それとも」
 彼女は唇を真一文字にした。
「死んで欲しかったのかな」


テキレボ7に出す作品のサンプルです。一応最終話前まで投稿予定。

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佐和島ゆら
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