亡霊居酒屋 やおよろず~許しの雨~後編
その子も、その母親も、哀しい身の上といえば、それまでだったのです。その子の名前は私は出しません。
私には彼の名前を出す資格はないんです。これを人は逃げと呼ぶでしょう。私も逃げていないと言い切る自信はありません。でも言いません。
その子は少し知的に障害がある子でした。しかしその程度は決定的といえないもので、特殊学級でも、サポートさえあれば、普通学級でも、どちらでも行ける生徒でした。
その子は、Bは、普通の学級で、他の健常な生徒とともに授業を受ける道を選ばされていたんです。
本人は口に開けることはありませんでしたが、きっと特殊学級で、自分の立場を理解できる生徒や先生と、小さなコミュニティで生活したかったのではないかと思います。
母親に特殊学級に通うことを禁止され、母親の申し入れにより、教師に自分の生活を見守りされるようになってから、Bは劇的に表情を暗くしていましたから。
Bの母親は、Bを、通常の子供だと思っていました。知能の遅れはごくわずかで、どちらかというと知能でははかりきれない、感情の理解や状況判断をBはひどく苦手にしていました。でも母親はそれを個性だと思ったんです。
不器用な性格であり、性格は健常な生徒がいる学級で生活すれば、きっといつかは理解されるだろう。
自分は自分の子供を、当たり前の人がたどるだろうレールに乗せるためなら何でも出来ると、母親はBにしっかりとついて、応援していました。
過去にそれでいじめが起きても、母親は激しく怒り、いじめた相手を徹底的に追及しました。でもそれは普通学級にこだわって、引き起こされたのが一因であるとは、母親は私の知る限り、最後まで認めませんでした。
私が教職を辞めた年、私はBの担任でした。母親の過敏なクレームや、Bのことを考えろと言う欲求はひどく重荷でした。Bは授業についていくのも苦労していました。勉強内容と言うより、グループでの活動が出来なかったんです。子供たちはそんな彼を、そう正直に言えば迷惑に感じていたのでしょう。でもそれを表に出しませんでした。優しさというよりは、彼をいじめて、結果として今の場所にいられなくなった子供がいるという存在に恐れたようです。その代わりなのか彼のものはよくなくなりました。消しゴムをなくなる日はないという状態でした。私はそれを知って、Bに声をかけましたが、Bは不気味なほど黙っていました。困るとも哀しいとも、何も言わなかったんです。そんな日々の中の、事件が起きました。
Bが授業をさぼったのです。
少し探したところ、Bはプールの影に隠れていました。
私は言いました。探したぞ! と。この時、私は隠してはいましたが、きっと隠れていなかったのでしょう。
Bに対する、息切れに近い感情を。生徒だからこそ、あきらかに間違った行為を正していかないといけない。でもBは言い方を気をつけないと、母親がやってくる。それに対する疲れが……。そうーーBはすべて見抜いていたんです。Bは人間と付き合う面で苦手部分があるだけで、考えることは人よりもずっと長けていたんです。でも、私はそれに気付いていなかったんです。Bの分厚い仮面の中を覗けなかったんです。
Bは言いました。
授業に出たくないと。
私は言いました。
それはよくないと。
皆がやってるんだぞ、一人だけさぼるなんて……と。
Bは近くにあった柱を掴みました。そしてぎゅっとしがみついたんです。私が引きはがそうとしても、指に食いついたすっぽんのように離れません。
数時間、晩秋の寒い空の下で、Bは柱にしがみついていました。
Bが柱から離れたのは授業がすべて終わったときでした。Bはがたがたに震えていて、寒さで体の調子が狂ったのは明白でした。とりあえずBを保健室に何とか連れて行くと、Bの母親がいました。母親は詰りました。私の子供がこんなことをするなんて! 学校はいったい何をしているのと怒り狂っていました。私は養護教諭にBを預け、母親を別室に案内しようとしましたが、母親はその態度も納得いかず、ふざけてると馬鹿にしてると泣き出さんばかりの勢いでした。
母親はBのことで、毎日のように苦労していました。Bが生まれたことが恥と考える親族の揶揄や嫌みに耐え、理解のな地域の住人の声に頭を下げ続けていました。Bは適切な教育を受け続けなければ、将来は仕事のないことは、誰の目には明らかでした。Bに協調性を求めて、医者や福祉サービスの担当者やそういう人たちの塾を訪ね回り、通わせては失敗していました。つまるところ、母親には余裕がなかったのです。子供を失敗作なんて言わせないという気概で、どんどんと自分を追いつめていったのです。だけど母親をだれも、それが当然だとして、何もせず、彼女がモンスターだと困り果てたんです。そして私も、困り果てたんです……。
そこでいきなり、きりきりとした叫び声があがりました。Bが大声をあげたんです。それを止めようと養護教諭を突き飛ばしたんです。その勢いはすさまじく、私も止めようとしましたが、Bに蹴られました。転んでしまって、ほらこの腕時計の傷、これはそのときについたんです。
そして痛みをこらえつつ、学校の最上階に向かうBを追いかけたんです。
そして教室に逃げ込んだBは、窓枠に足をかけていました。そして私を見て、こう言ったんです。
「僕なんて、いない方がいいんだよ!」
その言葉の強さに私は一瞬動けなくなりました。するとBは安らかな笑みを浮かべたんです。
「ほら、やっぱり」
そして、飛び降りたんです……私の目の前で。私の心を見透かして。
私は打ちのめされました。生徒に私の暗い部分を見抜かれていたという事実に。もちろん生徒は鋭いということは知っていました。しかしあそこまで、私の暗い部分を読みとり、そして何も出来ないまま、死のうとさせてしまったことを。
Bは幸い、いや奇跡と言うべきか、亡くなりませんでした。でも右手は神経が切れてろくに使えなくなりましたし、両足も動かなくなりました。
でもBはそのことを、喜びました。
「これで、誰にも言われないね」
そう自分や自分の母を。こんな状況になってまで詰るなんて。とても周囲の人間には出来なくなったのです。
「役立たずになれたね」
もう、頑張らなくていいんだと幸せそうに笑ったそうです。彼はもう、壊れきってしまうほどに、疲れていたんです。存在することに。
私は生徒に、そんなことを言わせた人間の一人になってしまったことを強く、そう強く恥じました。そしてどうしようもない後悔に襲われたんです。私は何も出来なかった。いや何もしなかった。Bのことを分かろうとしなかった。それによって引き起こされたこの事態に恐れおののきました。毎日夢にBが出てくるんです。Bは楽しそうに笑っています。でもその光景は……私を苛むんです。
私は毎日のように吐きました。歩くとめまいがしました。学校に行くどころか、近所も出歩けなくなって、私は教師を辞めざるえませんでした。
その惨状では家族を養うことは出来ませんでした。家を保ち続けることもできませんでした。妻には家を売却金を渡して、実家に返しました。そうすることしか、出来なかったんです。
一度Bを見かけました。相手も私のことを気付いているようでした。Bは一瞬でしたが、私を見ました。しっかりと、見て、、目をそらしました。どんなことを考えていたのでしょう。Bの目からは何も悟れませんでした。ただBは私を詰りませんでした。赦しませんでした。それだけです。その日は晴れでした。乾いた風が拭く、晴れた日でした。
私が死んだのはそれから十年の月日が経とうとした時でした。しかしその十年は、私の中では死んだ時間も同然です。どんな風に過ごしていたのか、思い出せないのです。ただ時間は、粛々と進行していき、私はそこで立ち尽くしていただけなのです。そしてある日、私は死ぬことを決めました。何故、十年も経って死のうと思ったのか、実はよく、分からないんです。布団の中で、朝日の光のまぶしさにひどく泣けてしまったからでしょうか。それとも目をつむった時の闇の深さに、身を委ねたくなったのか。ただ私は死のうと思いました。
かばんに縄を入れて、教師時代によく着ていたスーツを身につけました。少し大きくなりましたが、なんとか着れました。時計を身につけたとき、少し自分の静かな心に恐怖を覚えました。まるで紙を処分するときのような、あの何の感情もない、動作をするように、自分の命を絶とうとしていることに。
雑木林の丈夫そうな木に、縄を掛けた時、雨が降りました。静かな雨です。私は濡れながら、雨の日の少女の笑い声を思い出しました。そして乾いた魚の目のような少年の立ち姿を思い出しました。そして、首に縄をかけたんです……。
「私はどうしたら、良いのでしょう」
お客は呆然と呟いた。
「どうしたら、赦してもらえるのでしょう」
私は生徒が、笑って元気でいられたら、それで良かったんですよ。
お客の目から、涙が一筋流れた。
店主は目を細め、ぼそりと呟く。
「雨、止みましたね」
翔太は小さく頷く。そして夕方、主人が言っていたことを思い出していた、
「お前の先生は、それだけお前を見ているんだ……それを忘れるな」
翔太は重く息をつく。
柱につけられた時計の音が静かに響いていた。
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