仕事を探していた父が、その面接先の方にあなたでは無理だと言われたそうだ。
 話し上手で、笑顔もよいと評判だった男に、その宣告はひどく胸に応えたのだろう。
 父は仕事が出来そうだと喜んで話をしてきたときと打って変わって、珍しく酒を飲んでいた。
 ビールの缶をぷしゅりと開けていた。
 父は顔に赤みが差しやすいので、すぐに酔いが分かる。
 そのくせ顔がにやにやとして。崩れている顔がさらに崩れるのだから……格好がつかなかった。

 私は父に起きたことの意味を何度も噛みしめる。

 唇を噛んだ。

 近くの商店街に行くとあちらこちらからお囃子の音が聞こえた。
 秋も中頃。稲刈りも最盛期を迎えて、田を見ると、どこかしらでコンバインは動いていた。
 お囃子の音は心を浮き立てさせるものだ。
誰とも遊びに行く予定もないし、行っても1人でいることが目立ってしまう田舎では息苦しくてたまらない。
 私は会話が出来なかった。家族以外と話すと言葉がうまくまとまらない。
 そのくせ、人と話したくてたまらないから、言いたいことが多すぎて苦しいから、独り言だけが増えていく。始終ぶつぶつと呟く私は「気持ち悪いもの」だった。
「あぁ、テストの山。考えなきゃ」
「財田先生なら単語の暗記が必須だよね」
「先生が難しいと笑って言うところは必ず出すよね」
「先生、自分のくせに気づいていないのが、おかしいよね」
「……本当、おかしいね」

 父は病気で手術をした。
箸を持つのもしんどそうだったが、次第にもてるようになった。口も動かしづらそうだったが、少しずつ動かした。おかゆから軟飯、ご飯に変わる。
「意外と普通の生活に戻れるもんだな」
「お父さんほど、そう、そんな体で車の運転が出来るなんて奇跡だって、近所の人がびっくりしてたよ」
「あぁ。車の運転はなめるなよ。二十年以上は運転しているんだ」
「でも雪道で、夏タイヤはやめて……雪国の冬をなめないで」
「かの子は心配性だな」
 父親は不格好な顔で、呆れたように笑った。

 お囃子の音を耳に残しつつ、家の前を通ると、親戚のおばさんが家の扉をしまるところだった。
「かの子ちゃん。聞いたんだども。東京さ、行くのが?」
 私は黙って頷いた。
私は大学に公募推薦で行く準備を整えていた。
「それは止めね。でもな、とさのことを考えれ。かさはこの家の者じゃね。かの子ちゃんが最後に面倒をみねばなんねぇど?」
 私は顔を伏せて頷いた。
「かの子ちゃん、本当にその選択でいいんだが……?」
 私はひどい女だ。病気の父と母をこの町に置いていくと考えている。
 だけど、そうでもしないと、私は自分の人生をはじめられないような気がした。
 こんなにしゃべられないのは、私は医者の診断を受けてはいなかったが、心因的なものが大きかったと直感していた。環境を、ひとりぼっちが当たり前の人生を変える努力を、環境でつぶされないように、私は東京に行かなければいけない。
 私はかすれて、ぼそぼそと先の細い声で言った。
「い、いいんです」
 おばさんの顔に一瞬の侮蔑が浮かんだ。
それは私に対してではなく、私の東京行きを応援しているであろう、母への嘲りだった。
 それに肩身がせまくなった。

 私のことなのに、私ではなく母が責められるなんて、気持ちが悪い。

 お囃子の音が聞こえてくる。山車も出て、ゆっくりと道を練り歩く。祭りは本番だ。
 稲の豊穣を祝う、秋のお祭りに皆の顔が明るく、瞳はきらきらと濡れている。
 赤ら顔の男たちが談笑し、女たちはせわしなく祭りの準備を裏から手伝う。子供は面白がって走り回って、転んでいた。泣き声が澄んだ青空に響く。
 私はその音を聞いたり、とき窓を開けたときに見たりしながら、小説を書いていた。
 昔から空想好きで本を読むのが好きだった。それが高じて小説を書くようになっていた。
 物語の世界では、私でも存在することが許された。逆を言えば、私のような気持ちの悪いものは、物語にしか、いることが許されなかったのだ。
 幸せだった。袋小路の幸せだった。
 祭りの休日に、部屋にこもって小説を書いていた。このまま寝るまで小説を書こうかと思ったけど、夕食後、突然父が言った。
「花火を見に行こう」
 秋の祭りは夜になると、提供がいちいち読み上げられる花火が打ちあがっていた。大きなホールのある公民館の裏側から、打ち上げるのだ。
 母は暗いから私が運転しようと言った。
父は断った。それくらい平気だと言った。
 父は人がよく集まる屋台が並ぶ公園はさけて、月明かりしかない、田んぼのあぜ道の真ん中に車を置いた。母は車内から花火がみたいと言った。私と父は外に出て、どん、と打ちあがる花火を見た。秋の夜の風は涼しかった。少し薄いシャツでは寒さを覚えた。花火が打ちあがると、火薬のにおいが少し感じる。
「なぁ、かの子」
「なぁに」
「おめの夢は何だ?」
「何を突然」
「ん。最近小説をよく書いでるからな。作家にでもなりてぇだがと思っでな」
「なれないよ。絶対無理。もし奇跡が起きてなれたとしても、先がない仕事だと思うよ」
「作家は厳しいと聞ぐな。でも本当はやりでべ」
「まぁ……ね」
「まぁ難しいども、そうだなぁ、やりでごとやれだらいいよな」
 父は深く、大きく頷いた。その大仰な態度が、父の過去を思い浮かばせる。
 父は夢を持てなかった人だった。生まれたときから、家を継ぐとされた人だった。昔の田舎では、夢は寝て見るものであり、現実にかなえるものではなかったのだ。父は農家として働き続けた。時折その明るい調子を買われて、営業のようなことをしていた。かつての話だ。
「お父さんは、どう生きたかった、若い頃」
 どん、とまた花火があがり、遠くから歓声があがる。父の乾いた声が響く。
「花火みたいに、一発どかんと咲いてみたかった」
「花火じゃすぐ消えるよ。だめじゃん」
「そうか、だめかぁ」
 月明かりがきれいで、父の困ったように笑う片目が見えた。私は慣れつつあるその顔が、急に見られなくなって、背中を向けて、少し距離を取る。父はなぁと私に呼びかけ、私は再び父を見た。
「なぁ、頑張れよ。夢な、諦めるなよ。もしかしたら一冊くらいは本になるかもしれねがらな」
 思いのほか真面目な声。私はじっと父の顔を見つめた。その、化け物のような顔を。

 父は鼻の奥にガンが出来た。
そのガンを切除をするために、片目を失い、鼻はつぶれ、片方の頬が腫れていた。
 かつての笑顔のよい男の顔はその無惨な顔から探すことは出来ない。
 人は父の顔をまともに見ようとしない。
 父も鏡をろくに見ようとしない。
 父は障害者になった。片目を失ったことが理由ではなく、嗅覚を失ったことが障害者になれた理由だと話して、面白いだろうと言っていた。目玉より、鼻が大事なんだぞ、この国はと笑っていた。父は障害者になったが、それでも自分は普通の障害者と違うと、そう自分は「例外」だと胸を張って、働き口を探していた。でも父の顔を見て、父を雇う人はいなかった。たとえ口がどんなにうまくても、営業の才能があっても、損なった顔では、誰も近づかない。
 近づくのは、近くに人がいない孤独な家族だけだ。
「夢を見たら、きっと皆が泣くよ……」
 私は拳を握った。父の命は数年持てばいいと、宣告されていた。花火が、また、打ちあがった。
 音が異様に、耳に響いた。
「それでも、やってみれ。夢を見てくれ」
 父は夜空を指で指した。

 秋の澄んだ空気の空に、火の花が鮮やかに咲く。

 私はそのきれいなものに、きれいなことばに、一瞬見惚れた。
 しかしすぐに地団駄をした。
 私にとっては以前と変わらぬ父であるのに、世間は違うという現実に。父が何もかもを諦めているということに。うまくフォローの出来ない自分に。私は地団駄をするしか出来なかった。

 父は笑っていた。

 そうして、父は医者の宣告通り、数年経たずに死んだ。
私は東京に母を連れていき、かつて暮らした家は雑草に埋もれていると言う。

 私は今、小説を書いて暮らしている。

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