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私と月と旦那様

 からんからんと下駄を鳴らして、家の戸を開ける。
町を練り歩く豆腐屋から豆腐を買ってきた。
「ただいま」
 声を上げるがそれに応えるものなどいない。私の旦那様は今日も出張で家を開けている

 三日前のことだ。
「また出張ですか……」
 旦那様は軽くうなづき、家からはずいぶん遠いところにある地名を口に出した。確か橘の実がよくとれると聞く場所だ。数日は仕事で行き、電気で動く箱を売るのだと言った。
 旦那様の会社の指示も唐突だが、旦那様もその予定を行く直前に言う。
「そうだな、大丈夫だ。みやげは買ってくる」
「みやげのお菓子を食べたいだけでしょう」
「まぁ、そうだという」
 そこは世にも珍しい甘い橘がとれるらしく、その香りの良さと味から、高値で売れる上に珍重されている。
「実はその実を少しもらえそうなんだ」
 旦那様はにんまりと笑う。あぁいやな顔と私は目線を下げる。旦那様が楽しそうに笑っていると私はあまり愉快でなくなる。旦那様は外に出掛けるのが好きだ、普段は交通事情があまり発達していない地域と言うこともあって、会社と職場を往復するような毎日だ。しかし出張となれば、金も出て、外へと出かけられる。普段は見られないもの、触れられないものに出会える。

 いつかの時に語った海のことを旦那様はこう言った。
「ここの灰色の海ではないんだよ。青いんだ、そこの漁師は空の青が続いて海になったというんだけど……おもしろいと思うだろう。俺はおもしろかった! 何だろうわくわくするんだ」
 夜、仄かな電灯の明かりが、ついと消えた。月の白い光が、縁側から注いで、白い旦那様の顔を照らした。黒縁のめがねの奥の瞳がきらきらと輝いていた。私は海の青い輝きを旦那様の瞳から感じ取った。

「いってらっしゃい、一応お仕事ですから羽目をはずしてはいけませんよ」
 旦那様は鷹揚に頷く。
「分かってるって。何、ばれないようにはしとく」
「それがいけないんですって!」
 私は頬を膨らまして、旦那様の鞄を旦那様に強く押しつける。
 この間掃除していたら、旦那様の机から春画を見た。
 ストリップというものが、首都にある小劇場ではやっているらしい。フリルの付いたエプロンだけを身につけた女とか、胸を露出したボンテージとか、蠱惑的な表情で踊り、人気を博しているという。
「なんて節操のないと思いませんか、まったく不埒なものに引っかかるとは男の名折れでは!」
 近所に住む奥様は旦那様が出張で首都に行き、小劇場でストリップを見たという。さらにそこで最近はやりの写真をとったという。それはそれは辞書に挟めて保管していたというところに奥様は激怒した。
「私の写真よりずっと大切そうに保管するのですよ! これは精神的な不貞といっても……」
 なんて苛烈な怒りだと思うけれど、私はその気持ちがよく分かる。自分の知らないところで、ほかの女を楽しんでいるとは面白くないものだ。あぁ面白くない。
 お前は私に吐いた言葉を忘れたのかと思ってしまう。
その唇で、ほかの女に浮ついた言葉を吐いてるのかと思ってしまう。
「私の旦那様は絵をよく見るのですよ……」
「まだ絵ならましですよ、あれは生の女ではない」
「そうですね……」
 その絵はミイラが男にまたがるというものだった。それ以外に見つけた絵も、これはまぁ特殊なもので。たこと女がまぐわっていると有名な浮世絵のあの狂った感じと同等のものだった。
「男の女好きには困ったものがありますね」
「えぇ……」
 近所の奥様は大きく息をつく。確かに特殊な傾向であるが、私の旦那様は女好きだ。性欲が溢れて、こじらせているだけだ。まさか虫におそわれてよがる女の絵を何枚も集めているとは、近所の奥様には言えない。

「まぁまぁ、行ってくるよ。お小夜」
 旦那様は私の肩を優しく叩く。その声音が穏やかで馴染みをもった響きを持ち、それが私の心をふわりと包む。何も言えなくなって、私は小さく頷いた。
「あまり羽目を外さないでくださいね」
「あぁ」
「お願いですよ」
 何のためのお願いなのか、私は言っていて何だか切なくなった。

 豆腐を茹でて、ネギとしょうがを添える。醤油を白く柔らかいが、張りもある。箸で押し切り、醤油を染み込ませる。うまい、あっさりとした豆腐に醤油のしょっぱさが旧友のように馴染みあう。
 女一人で酒を飲むというのは、寂しいとは分かっていたが、お猪口に入れて、くいと飲む。
「あぁ……」
 その落胆した声が自分にとって毒になると分かっていた。今日は真白な満月だ。青い海について語った旦那様を思い出す。あの時の旦那様は本当に楽しそうだった。私のいない場所で楽しい思いをしていたのだろう、腹をつねりたくなるほどに憎いことだ。鬱憤がたまっているのは分かっていた。旦那様の不満点が頭の中でいくつもわき上がる。

 あらいものをすぐに出さないこと。
 ものの整理が出来ないこと。
 夜を共にするときはずいぶん性急なこと。
 楽しいことにすぐに夢中になってしまうこと。

 なんてつまらないくらいに鬱憤はわき上がる。いらいらが募ると酒が進む進む。くいくいと飲んでいく。
 やがてつまみの豆腐はなくなり、酒もなくなる。
 頭がうまく動かなくなり、私は畳の上で大の字になった。小さく叫ぶ。子供のように駄々をこねたくなることが、大人だってある。大きくなったから、結婚したからって、人はやすやすと大人になる訳ないのだ。
「……ばかー」
 畳の目を指でなぞる。
「ばかー!」
 酒で心の糸が切れたのか、それとも真白な月と目があったせいか、涙が出た。塩辛い水の粒が連なるように落ちる。
 好きで結ばれた、好きで結婚した、好きだった、ダメなところだって好きだった。それなのに何故こんなに心が沈むのだろう。喧嘩を売りたくなるのだろう。
 あぁ会いたい。
会いたい。ここ数ヶ月は出張ばかりだ、家にいても落ち着かない。もっと二人で話したい。何か重要なことがあったわけではない、ただ何でもなく話したい。隣でその存在を感じていたい。
 私はぽつりと吐いた。

「……寂しいよ」

 旦那様、どうかこの心の空洞を笑ってよと私は思った。
あなたがいないとダメなんです。あなたという大事な成分が欠乏しているんです。私ではないものに楽しんでいることは止めないけど、でもどうしようもなく。
「恋しいよ」
 私は真白な美しい月に手を伸ばした。
 遠いところの同じ月の下で、旦那様はいるだろう。
瞼の裏に浮かぶ面影を求めるように、私は手を伸ばした。


お題「月は遠くとも」 

#小説 #恋愛 #掌編

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佐和島ゆら
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