「意味の時代」から、「わかんないの時代」へ。
疲れました。意味に。
のっけからそうぼやいてしまうほどに、意味疲れしている。ここ数ヶ月ほど、なぜかみんな口にすることが増えた「意味」という言葉。「この事業の意味は」「この商品の意味は」・・・。何かの本の影響?なんなの?自分以外全ビジネスパーソンが受けているセミナーがあるの?
もはや食傷気味で、意味という言葉を相手が発したとたんに、
(意味ってローマ字で書くとIMIで、反対から読んでもIMIなんだよな。深い…そういえば国際通貨基金ってIMIだっけ、いやあれはIMFか…)
と、自動トリップしてしまう日々である。
ちなみに私は、少し前まではストーリー疲れを起こしていた。何故なら、だいたいのストーリーは似通っているから。起業家や若いクリエイターが「この事業のストーリーを説明します」といいはじめた瞬間、耳をパタンと90度前に倒したものである。最近ではデザイン思考疲れ、アート思考疲れ、DX疲れも起こしている。そうだ私の脳は体力がない。
さておき、「意味」の話である。
かつて「機能の時代」があった。特に、テレビや冷蔵庫に代表される家電は、「他社より1画素でも美しく!」「他社より1mgでも軽く!」とスペック合戦でドンパチやっていた。
その後80年代以降は「ブランドの時代」が訪れ、「イメージ」「世界観」で企業や商品を選ぶ消費者行動が盛んになり、やがて「意味の時代」へと移行したようだ。
なんでこの事業は生まれたの?ターゲット設定は明確?ROE目標値は?SDGsのどのイシューからはじめてる?ESG的観点は?ウィズコロナ視点はもちろん入ってるよね?
株主への説明責任を果たすためにも、意味が必要なのはわかる。けれど、意味でがんじがらめに固められたものは、なんだか息苦しい。人工的すぎて泣ける。嗚咽レベルだ。
「意味の時代」から、「わかんないの時代」へ。
そんな意味疲れを起こしていたある日、ひとつのロゴが目に留まった。
ん?ランボルギーニ?ちがう。見たことがない文字列だ。
なんなの一体。
実は、「ヘラルボニー」はれっきとした株式会社である。「異彩を、放て。」というミッション通り、平均値から大きくはみ出た異彩を発見して、磨き上げて、ネクタイやスカーフなどに着地させて、販売している注目の会社だ。
気になる社名は、(株)ヘラルボニーの社長松田崇弥さんと副社長松田文登さんの、4つ上で自閉症の兄翔太さんが、7歳のころに自由帳に書いた言葉。
松田さんたちが兄に「ヘラルボニーって何?どういう意味?」と尋ねても、ただ「わかんない!」とだけ返ってきたそうだ。
そう、「ヘラルボニー」とは、翔太さんが、感じるままに紡いだオリジナルの言葉だったのだ。この意味が「わかんない」言葉は、不思議な魅力を纏っている。一度聞いたら忘れられないし、色気がある。なにより、意図せず生まれているからこそ、理屈を超えてダイレクトに響く。
「意図」から、「ふと」へ。
意図の対義語は何だろう?それは、「ふと」ではないだろうか。ふとは漢字で「不図」と書く。図(計画)の否定形だ。「ふと」思いついたものは、人知を超える。意図の埒外にあるからこそ、意外性がある。その意外性に出会うと、ビックリするし、ホッとするし、ニンマリする。
そうだ。再現性の低い、ふと奇跡のように降ってくる「わかんない」こそが、意味が渦巻きすぎているこの時代に必要なんだ。
大好きな詩がある。
当時11歳で、知的に障害のある少年が書いた詩だ。もう、見るたびに、
「たべほうだいプールってなんだろう?何の味がするんだろう」とか、
「それぞれのプールをコースに見立てているから、各行の長さを揃えたのかな?」とか、
思考を巡らせてしまう。少年は、たぶんだけど、この詩に意味を込めていない。褒められようともしていない。書きたいから書いたのだ。が故に、ふと書いた、一見意味がないこの詩は、私の心を掴んで離さない。ときおりTwitterでも自慢している。自分が書いたわけじゃないのに。
好きすぎて、なんかもう「この詩でキャッチボールしたい!」という謎の狂想に囚われてしまい、ボールまで作ったことがある。
ひとつ反省していることがある。「プールの詩でキャッチボール」は、ふと生まれたアイデアだ。無性に、この詩を握りしめたり、人差し指と中指で挟んだり、投げたりキャッチしたくなったのだ。
それなのに、あろうことか私は、この企画を提案先のテレビ局にこう説明した。
「詩をボールに印字することで、文字通り言葉のキャッチボールをする企画です」
もっともらしいことを言っているのである。ふと思いついたのにさ。
そう。アイデアで10年以上ご飯を食べている自分はもう、意味に毒されていたのだ。つまり、そこに論理とか根拠とか必然性という意味がないと、提案先から受け入れてもらえないという強迫観念に苛まれている。嗚呼恐ろしいね、マーケティング社会。
"Why"から、"Don't Know Why"へ。
だからこそ私は、「ヘラルボニー」を生み出した松田翔太さんから学んだのだ。
わかんないものは、わかんないと言っていい。それはもう、ありったけの自信と共に。だって、意味は勝手に受け手が添えてくれるから。
さらにいうと、これから先、意味があるものは、知的なマーケターやAIが量産してくれるだろう。だからこそ意味はコモディティ化していく。そして「わかんない」の価値が相対的に上がっていくのだ。
ビジネスではよく"Why"の議論になる。「一体なぜ、これを始めるのか?世に投じるのか?」。状況を整理するために、定期的に立ち返るWhyは、有効なふりだしだ。
でも、「一体なぜ、これを始めるのか?世に投じるのか?」に、"Don't Know Why"と答えてもいいじゃないか。「意味はないです」「わかんないけど、思いついちゃったんです」。そのしたたかではない純な想いに、多くの人が惹きつけられる時代にもう突入している。
さて、最後に。ここまでご機嫌に書き連ねてきたこのnoteをどうやって締めればいいか。答えは一つだ。
わかんない。
(写真:奥山淳志)