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受験との葛藤(2013年3月24日)

 前々回で紹介した小松英雄先生の『伊勢物語の表現を掘り起こす《あずまくだり》の起承転結』(笠間書院/2010年8月)は手にとられましたか。

 小松先生のような文献研究(教材研究)が今後の古典教育には欠かせないと私は信じていますが、小松先生自身も本書の中で一言、以下のように述べているのが気になっています。

 中学や高校で国語科を担当している教員のみなさんにも筆者の考えかたをぜひとも理解してほしいと切望しています。ただし、本書に提示する解釈を教室で話したばかりに生徒が受験に失敗したという事態が生じても、筆者としては責任の取りようがないので、その点には、くれぐれも注意してください。文法教育の嘆かわしい現状を見ても、いつになったら古典教育が惰性から抜け出せるのか、筆者はきわめて悲観的です。」(「イントロダクション」13頁)

 小松先生の古典教育に関する考えは正しいと私も思います。しかし、この弱気な発言は大学受験を考えるからだということなのです。中学・高校で古文を教える(教わる)意味というのが正直なところ入学試験問題を解くこととイコールである、要するに、ほぼ唯一の目的である、といった状況になっているのが、小松先生の「悲観的」な思いの背景の一つにもなっているのです。

 その点について興味深い話を伺ったことがあります。
 私は、平成21年に駿台の夏期「教育研究セミナー」の講義の一つであった「『古文をめぐってあれこれ考えてみる』」(講師/白鳥永興・室城(むろき)秀之)に参加したことがあります。そこでゲストとしていらした、白百合女子大学で教鞭をとられている室城先生(『宇津保物語』研究の第一人者で、ビギナーズクラシックスの『うつほ物語』の編者でもあります)が以下のようなことをおっしゃっていたのが強く印象に残っています。

・ 学生が高校で習ってきている古典文法と古文を読むこととが結びつかない。注釈書ではなく原文を文法に沿って、一つ一つの言葉で読んでいくことが必要である。
・ 特に、助動詞「べし」と「む」を例にあげて、現代語訳上必要となったためにいくつにも分類した意味(推量・意志・可能・当然・命令・適当・予想など、俗に言う「スイカトメテヨ」の語呂合わせで覚えているもの)の指導は生徒を混乱させ、古文を読む行為から遠ざかるものである。
・ 「べし」であれば現代語の「べきだ」を我々は意識して使い分けていないことに気づかせ、〝当たり前だ・当然だ〟という大きな意味を一つとらえさせていけばよい。

 しかしながら、やはりというか、白鳥・室城両先生の講義の最後には受講者より、〝現状の大学入試が要求する形での指導をしなければならない〟という意見があがりました。それに対し、駿台講師の白鳥先生からは、まずは根本の意味を提示してから意味の分類をさせていくような指導の仕方があるということ、室城先生からは高校教科書作成にも携わっているため自説に基づいた教材の選定と指導法の提示をしていきたい旨、悪問は悪問であると訴え続けたい旨のお答えがありました(ちなみに、この講義に大変興味を覚えた私は、室城先生がまたいらっしゃらないかと、セミナーの案内を毎期チェックしていますが、機会は訪れないままでいます)。

 室城先生と小松先生の問題意識の根は同じものであると思われます。

 私個人の見解を述べると、入試問題においてはまず、解釈が揺れるような部分からの出題はないと見ています。だから、小松先生の方法を多くの中学・高校の先生がとるようになったとしても、生徒の古文読解力アップという事態は起こったとしても、小松先生が危惧するようなことはないと信じています(時々、模試などではややきわどい問題などが出ていて、どきっとすることはあるのですが…。室城先生によれば、文法的な根拠を確定する上で難問という点では、時々「えっ?」という問題はあるようです)。だから、生徒には古典教育における事実をありのまま伝え、もし、小松先生の方法と衝突するような過去問に出会ってしまった場合には、教員は生徒とともに調べ、考えればいいのだと考えています。

 加えて私は、次のような考えも持っています。
 ――古文そのものを鑑賞し、解釈することはもちろん授業の第一義的な目的だと思います。しかし、教育というのはそれだけにとどまるものなのでしょうか。

 辞書を引き、文法書を確認し、その上でどうしてもひっかかってしまった、すんなり納得できなかったという事柄に関して、とことんまで、一番矛盾の少ない方法で筋道をたどり、論理的な結論を導くこと。そのようなことが、真の科学精神であり(自然なものを、こちらがこうあるべきだと規定した型に無理やりあてはめようというのは、真の科学ではないと考えます)、自主性・自立性に富むあり方なのではないでしょうか。

 下手な出題があったとしてもそれはごく稀なことだと信じています。もし、そんな問題ばかりが出題される学校ならば、入学して学生は一体何を身に付けるのでしょうか。それよりも、大学に入ってから、大学を出てから、いかに問題を解決していくかという姿勢を、生徒たちに身に付けさせたいと私は考えます。

 おかしいものはおかしい。正しいものは正しい。それを、真の科学精神に基づき、揺らぐことなく主張できる人間に、私の生徒たちにはなってほしいです。古文とは、鑑賞すべき内容もさることながら、そうした可能性を持つとても魅力的な学問です。



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