YouTube「文学が登場〝人物〟の思いや真実を矮小化する危険性? ~北条仲時以下432人自刃の場面に思ったことなど~」配信
冒頭のキャラクターは、今はもう配信をしていないゲーム「明星の華」より北条仲時です〔個人的にはかなり好みな雰囲気〕。
先週久々にYouTubeのアップをしました。
北条仲時らは、京都(六波羅探題)を捨てて東国の兵と合流し、捲土重来を期していたはずであるという谷口雄太先生のお話を聞いて、皆死んでしまって記録が残っていない、残っていても混乱しているという〝事実〟の重みに思いを馳せました。
※谷口雄太先生についてはこちらをご覧ください。
これまで、事実では描き切れない部分の多くを文学が語り得ているのではないかという考えを、多くの動画でもお伝えしてきたのですが、ここにきて、記録がないという〝事実〟以上の衝撃はないのだということと同時に、そうした現場の人物たちを、この時はこれ、といった物語の定番の型にあてはまてしまうのは、文学のはたらきが逆に仇になってはいないかと、立ち止まって考えてみるきっかけとなりました。
それでは、詳細な記録として残ることなく死した彼らの思いはどこに向かうのかということになるのですが、おそらく、北条時行や諏訪頼重のように、時代に抗う人たちの執念はどこから……という問題とつながるのではないかと感じたのです(この部分については、自分の研究にとっても今後の課題ともいえます)。
結果的に、これまでいくつか配信した動画にもかかわるような内容となっています。興味のある方は、どうぞよろしくお願いいたします。
「「不思議」の現代~『太平記』鎌倉幕府滅亡の場面から考えたこと~」
「現代人への警告~『太平記』『逃げ上手の若君』で描かれる足利尊氏が示唆するものとは?~」
何度もFacebookなどで話を出していますが、私は〝話す〟のはあまり得意でないのと、動画をビジュアルやサウンドなんかにも配慮して〝見栄えよく〟作る手間が惜しく、zoomの静止画(共有画面)に声を吹き込むという手抜きをし始めましたが、この方法はけっこう使えるかもと思えてきました。できないならできないなりに、何事もやってみることかもしれませんね。
〔2021年7月10日のSNSの投稿をそのまま掲載しています。〕