散歩で見つけた小学生がもつ不審者像は今も変わらず「黒ずくめ」
近頃、散歩が楽しい。暇さえあれば散歩をするようにしている。行き先はくまざわ書店かブックオフと決めている。ちょうどいい距離にあるので散歩の目的地としては最適だ。
なにより、行き先を決めないで自宅から飛び出してしまっても、どこに行っていいのか分からず、ソワソワしてしまう。近所の人にそんな姿を見られたら、不審者のレッテルをはられてしまうではないか。
さらに、行き先のない散歩のことをその世界では「徘徊」と呼んでいる。私の祖母は徘徊のプロで国営タクシーを乗り回しているが、そうなるにはまだ早い。頭のネジは多少ぐらついているが、締め直せば大丈夫。行き先くらい自分で決める。無意識の散歩は控えたいと心に決めている。
今日も片道5kmの場所にあるブックオフに行ってきた。往復で10km
、1日1万歩を目指すために作られたようなブックオフだ。
立地の面では申し分ない。しかし、不満もある。近頃のブックオフは高いと言うことだ。新潮文庫からでている、ドストエフスキー「悪霊下巻」を目当てに行ったが、ボロボロなクセに定価より50円しか安くない。そんな古本だか新品だか分からない本だったら、くまざわ書店でピカピカな新品を購入するだろう。
きっと、店員さんも恐れたのだろうか?この本を軽率に扱い350円にしたら悪霊に取り憑かれてしまうってことを。だったら、ラスコリーニコフの物語はどうなんだい?古びた本だから110円で売っていいなんて誰が決めた?金貸しの強欲狡猾な老婆ならただ同然で売り捌いてもいいってのか?なんて妄想に取り憑かれていたら、不覚にも噴き出してしまった。
まあいい。そんなことはどうでもいいのだ。今日言いたいのは、小学生の不審者像が偏見に満ちているということなのだ。
何気なく、チラ見した掲示板だったが、おもわず引き返してしまった。なんて、偏見みちた不審者像なのだろう。世の中には黒を愛してやまない人だっているのに。都会に行ったら全身黒ずくめなファッションの人だってたくさんいる。みんな不審者と言いたいのだろうか?
それに、こんな不審者像は陣内孝則が演じたようにテレビの中にしか存在しないのだ。
世の中にはプラダを着た悪魔や、ピンクのベストを着た悪人だっているし、顔は輝いているのに、腹は真っ黒という人間もたくさんいる。反対に黒に身をつつんではいるけれど、蚊も殺せない聖人だってたくさんいるのだ!
ひどすぎるし、「OK,よくできたわね。」とGOサインを出したPTAのマダムたちは何をしているのだろうか?まっとうなPTA会長なら「いや、君の作品はよくできている。しかし、ひとつの問題がある。それは君が世界を理解していないことだ。色についてね。」くらい言うのが正しいのではないか?
怒りに震えていると、人の気配をかんじた。振り返ってみると、カーブミラーに映った黒ずくめの男がこちらを見ていた。不審者。。いや、私だ。落ち着け、まだ、犯罪には手を染めていないのだし、なにより、世界平和をこんなにも願っているではないか。
もっとこの問題を考えていたかったが、カーテンを勢いよく閉める音が聞こえたので、やめることにした。このまま町内掲示板に描かれている男と同じような格好をした男がこの住宅街にいることは許されない気がしたからだ。
黒が怖いのは本能だと思う。夜もなんだか不気味な気がする。やはり、人間は本能的に黒いものに恐怖を覚えるのだろう。
養老孟司も言っている。「恐怖は想像力だ。想像力がない人には恐怖はない」
しかし、あの不審者像はやっぱり間違っている。不審者よりもあんなものを掲示してしまう、PTA会の方の恐怖を覚える。そんな間違ったイメージからきっと、いろんな問題が生まれるのかもしれない。
たかが、散歩だけれど、歩いてみるといろんな発見があって楽しい。こんなふうに不審者像について考えるきっかけになるかもしれないし、謎の看板を発見して想像力が爆発してしまうかもしれない。
いったいこの先には何があるのだろう?
「かつらさん」のお宅があるのだろうか?それとも、誰にもばれないように、秘密裏にかつら密造工場でことがおこなわれているのだろうか。行こうとは思わない。世の中には知らないほうがいいことだってあるのだから。